来はいつも

東雲色の円環に潜む 2 / 3


痕跡の少しも、残っていなかった。目の前で四散した全てを、呆然と見つめていた。
――涙ははらはらとこぼれ落ち続けていて、胸を掻き毟りたい程の何かで息が詰まっていく。
熱の名残りさえない着物を拾い上げて、背中を丸めて蹲った。


「…っ…!」


――死なないで、生きていて、まだ隣にいてと、そう願う隙間がないわけがない。


「…名前」


右腕を引かれて上体を後ろに捻ると、そのまま沖田の胸に額を埋めた。そこにいたのは平生の姿をした彼で、体温は温かくはなくて、それでも聞こえる心臓の音に嗚咽が溢れる。
身体の芯が抜け落ちていく感覚だった。足先から凍りついていくようだった。もう何処にも動けないのではないかと思うほどに、身体は重く、だというのに軽過ぎた。


「…名前」
「っ……そ、じ」


喉の奥で、言葉とも息とも涙とも何とも言えない全てが滞っていた。


「…ぅ、っく…っわ、たし、これで、よかった…っ?」
「……名前、」


死にたくない。紅葉とまだ生きていたい。無垢だった願いが彼の足を、時を止めてしまっていた。長く長く掛け続けていた呪いが、音もなく解れていく。
ここから先は、絶望の話ではない。仮令、一つの終わりを迎えようとしても。
沖田は言葉は継がずに、ただ名前と何度も名前を呟いては強く身体を抱きしめていた。





朝日が昇るまで動けずにいた俺を、沖田は責めるでもなく静かに隣に居続けていた。月が傾き、白んでいく空にまた泣きたくなった。紅葉と共に生きるために願った約束が、本当にこれでなくなってしまったのだと突きつけられた気がした。
薄暗い雨雲が広がっていて、行き先もないまま立ち上がって歩くことを選んだ。風間に弾かれて飛ばされていた刀を拾い上げて腰に差せば、ひどくしっくりとした重さを感じてその度に立ち止まりそうになった。
行き先は、なかった。目指すべき目的もなくなり、ただただ北にばかり進んでいた。
俺の手を繋ぎながら歩く沖田は、そんな歩みに気がついて薄く眉尻を下げては名前を呼んだ。名前と彼に呼ばれるたびに、突き動かされていく気がしていた。
翌日の昼に泥のように眠りにつきながら、夢を見た。

――鮮やかな山々を越える。街道は人で賑わっていて、見覚えのある呉服問屋を通り過ぎようとしたところで軒先から出てきた青年がこちらを見るなり目を見張り、それから慌てて駆け寄ってきた。ぎゅうと唐突に抱きすくめられた身体は宙に浮いて、背に回された腕が確と着物を掴んでいる。耳元で弾かれた名前が誰のものであったのかを思い出すには、あまりに時間が経ち過ぎていた。青年の背後から現れた老齢の女が目元を押さえて俯いている。その傍らに立つ更に歳を重ねた男が、女のよろめきそうになる身体を支えていた。
――これは、夢なのだろうか。問屋の先には、微笑む盲いの男が立っていた。ふっと足元に影が差したので見上げれば、瓦屋根に光を反射させるほどの眩い髪を散切りにしている彼が膝を抱えて座っている。


『――』


屋根から身軽に飛び降りてきた彼は、右腕を引いて腰を掴むと幼児のように持ち上げてくるりと回った。その顔は綻んでいて、何故だか無性に泣きたくなった。
彼を中心に身体が一周する。するりと、身体が抜け落ちていくような、離れていくような感覚がした。地面に降ろされた"彼女"は、そっくりな顔をしていて、その不思議な光景に右手で自身の顔を触った。触れた。身体がある。眼前にもある同じ顔、同じ身体。


『――』


ちりん。


音を辿ると、呉服問屋の暖簾の下に風鈴が一つ、揺れていた。



――身体が揺れている。上下に激しく揺さぶられている身体に思考は一気に晴れていった。視界に広がるのは沖田の肩口で、身動ぎをしようと顔を上げるがあまりの動けなさ具合に身体を見ると背中を抱っこ紐の如く十字に括り付けられていた。


「…名前? やっと起きた」
「ごめん…俺、どれくらい、寝て…」


緩やかな傾斜を下りながら、沖田は横目で俺を見ると安堵したような息をこぼした。あたりは白み始めていて、もうすぐ夜も明けようとしていた。
彼は四方を確認しながら一度立ち止まってしゃがみ込むと、手早く紐を解く。地面に尻を落とした俺は、妙な違和感を覚えていた。
一日だけだと沖田は振り向いて声を押し殺しながら、少しばかり罰の悪そうな顔を浮かべた。


「…関所の近くのせいか、人の気配が多いみたいなんだ」
「……新政府軍?」
「そう。名前、ひとまず森を抜けよう」


沖田はそう言うと目を伏せて、唇をきつく噛み締めたまま押し黙った。その肩は僅かに小刻みに震えていて、鉛の入った右腕を持ち上げて彼の頬に触れる。長くなった前髪に隠れている双眸が、ゆっくりと俺を見た。翡翠の縁さえも震えていて、山梨から帰ってきたばかりの彼を思い出した。


「……昨日、近藤さんの、夢を見たんだ」


沖田の背後の深い森の奥で、光が揺れている。明滅するような不安定な光はおそらく行灯の類だ。
彼もなんとなくその存在に気がついたようで、一瞥だけくれると俺の右手を握りしめて頭を抱えるようにして胸に押し込めた。か細い心臓の音が鼓膜を揺らしていて、時折聞こえる肺の雑音に蓋をする。


「…試衛館の頃の、夢で」
「…うん」
「……うまく、言葉にできないんだけど…すごく、嫌な予感がするんだ」


――返事をしようと息を吸い込んだ。瞬間、不自然な葉擦れの音が響く。まだそう近くはないが、確実にこちらに迫ってきているこの音は人間の出すものだ。
朝日が昇るには時間があるとは言い難い。暗闇に乗じて逃げるならばあと一刻もないだろう。
逃走の提案をしようと考えたところで、どくりと、宛てがっていた耳元から心音が一つ飛び跳ねる。握られていた右手の熱が増していく感覚に、沖田の胸元から顔をあげて名前を呼んだ。


「…っ総司…!」
「ぐ、…っうあ……っ!」


およそ暗闇には溶けることのできない白が、そこにあった。
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