来はいつも

巡る若草色の約束 2 / 4


ふっと目が覚めた。あまりに身体が、軽いというのか重いというのか苦しいというのか何とも形容し難いが明らかに今までと異なっているような気配に呼吸を忘れた。
隣を見やれば沖田はまだ瞼を落としていて、空は既に紫に染まっている。
――一人ぼっちだ。いや、そうではない。いや、そうなのかもしれない。
長い夢を見ていたような気がする。誰かと話をしていた気もする。
そろりと左の指先を動かせば、当然のように動いた。それから手首、肘、肩と関節を曲げて、沖田の頬に触れる。冷たくて、死人のような青白さだった。


「…総司」


次いで右手を動かした。彼の頬を挟むようにすれば、気が付いたのかピクリと瞼が震える。
薄ぼんやりと押し開かれた瞼の下から翡翠の瞳が現れて、徐に俺を捉えてくたりと力なく微笑んだ。


「何、してるの?」
「……総司」
「ん」


眠る前より強くなった爛れた臭い。変わらずにある盛り土。沖田の塞がらない肩の傷。俺の腿の傷。


「…なんで、泣いてるのさ」
「……なんでだろ」


一筋、二筋と僅かな水滴が頬を濡らしただけで終わったそれに、沖田は俺の頭を引き寄せてあやすように背を撫でた。

それから四半刻もないうちに、沖田に負ぶわれて山を降り始めた。動かなくなった足に、彼は「貧弱だなあ」と揶揄った。そうではないということくらい、互いにもう分かっている。沖田は撃たれた肩を庇うように体重を右に傾けて歩く。銀の弾丸による銃創は致命傷にはなり得なかったが、確実に残り少ない体力を奪い始めていた。


「ひとまず街道に沿って降って、宿場町で休もう」
「…うん」
「ちょっと、寝たら落とすからね」
「寝ないよ馬鹿」
「君も大概な物言いするよね、今更だけど」


くだらない会話で誤魔化している。
沖田は時折足元の幹や枝で踏み外しながらも俺を降ろそうとはしなかった。休むことなく足を動かし続けていた。
立ち止まれば、熱に浮かされることなど目にみえている。
夜も更け、月が上り、遠い篝火を頼りに草木を掻き分ける。そうして人里にたどり着くと、適当な宿の戸を叩いた。人が眠るにはまだ少し早い時刻で、女将が割合すぐに顔を出す。
部屋を借りたいのだと言えば、訝しそうな目を向けられながらも案内された。
血みどろの人間を背負った二人組など怪しいことこの上ないだろう。しかも腰には刀を差している。人相が出回っていないだけ良かった。
幕軍だろうが新政府軍だろうが、この宿場町の人間にとっては恐らく尺たる問題ではない。火の粉が降り掛からなければ生きていけるのだ。
兎にも角にも案内された部屋の畳に腰を落ち着けた俺と沖田は、一息つくより先に湯浴びを優先させることにした。俺は一人では動くこともままならないので、先に沖田を見送って、女中から水の張った桶と手拭いを受け取る。血と泥ですぐに手拭いも水も汚れ切った。
――宇都宮城からはまだ距離がある。これでは間に合うわけがない。
沖田は何も言わない。置いていくとも追いかけるとも、何も。
出血の治っただけの、開いたままの傷を見る。どす黒く変色した断面に、およそ人ではない中身を見たような気がした。
着流しを脱ぎ去って、千駄ヶ谷の家からずっと小脇に抱えて携えていた風呂敷を解く。着物の替えもなく、ちょうどいいかと思わず笑った。
――淡い藤色の地に、細い花が散る浴衣。帯は一人では締められないので、帯紐で腹を留めておけばいいかとおざなりに結び留めた。原田にはぞんざいだなと呆れられるだろうし、千鶴には駄目ですよと嗜められるだろう。
ごろりと畳に寝転がる。
うとうとと睡魔がにじり寄ってきた頃に、不自然に消える足音が向かってくるのに気が付いた。


「――おかえり」


開け放たれた襖の先で、沖田は珍しく目を瞠って瞬きを繰り返している。


「…馬子にも衣装だね。帯ないけど」
「それわざと? それとも素直な感想?」
「さあ?」


いつぞやに聞いた覚えのある台詞に目を細める。結び方分かんないし、といえば女の子なのにと不思議そうな顔をして返ってきた。洋装の文化だったのと言えば何それと冗談と受け取った彼は呆れた顔を浮かべていた。
後ろ手に襖を閉めて、彼は肩のあたりにドサリと腰を下ろした。着替えるのが面倒になったのか、シャツ一枚で上衣を片手にまとめていた沖田は、可笑しそうに俺を見下ろしている。


「夏には気が早いんじゃない?」
「そうかも。ちょっと寒い」
「だろうね」


くつくつと笑う沖田は子猫でも抱き上げるような仕草で俺の脇に手を入れると、引きずるように抱え上げて胸元にすっぽりとおさめた。
水滴の滴る髪に俺の頬が濡れていくので、腕と頭を抜いて肩にかかっていた手拭いを奪って乱雑に頭を掻き撫でる。子供じゃないんだからと呆れ笑ったはずなのに、沖田は何も言わずに俺の手を掴むと再び決して優しくはない力で胸に抱き込める。
適当にシャツを羽織った彼の胸板は惜しげもなく開かれていて、頬が皮膚に触れた。仄かに熱を帯びているけれど、湯屋から出た直後だからなのだろう。沖田の持つ熱はもうずっと温かくない。


「…宇都宮城は、火に巻かれて落ちたらしい」


女将に訊ねれば、昨日の話だと返ってきたそうだ。なんでも幕軍の被害は大きいようで、あの新選組の土方が隣町の宿場で養生しているとの噂があるとも言っていた。
隣町といえど、山を一つ越えた先にある。平静を装っているが、彼とて今にも痛みに伏してしまいたいはずだ。肩口の銃創はそれほどまでに深く身体を傷つけている。
――どう足掻いてもついてはいけない。また俺を負ぶってまで山を越えるような余力が、沖田にあるとは思えない。


「…早く、会いに行かないと。俺、ここで――」
「名前を置いていきたくない」
「……大袈裟だなあ、ちゃんとここで、待ってるよ?」
「……名前」


沖田の足で二日もあれば往復はできるはずだ。――たった二日。そんなにも短い時間を、彼は案じている。腿の傷もかすり傷も、開いたままそこから細胞の一つ一つが壊死していくような傷口を直接見てはいないというのに。
そうだというのに、この身体が崩れることを彼は分かっている。――そう思う。たったの二日でさえ、彼の帰りを待つことでさえ、できないのではないかとうっすらと思考している。恐らく、というような不確実な曖昧さではなく、より確たる感覚として四肢に根差している。
名前と名を呼ぶ沖田の声に、心臓が軋みをあげる。押し潰されそうになる。声を、上げてしまいたくなる。
血など流れていなくとも、背中を掴むその左腕も呻くほどに痛いのだろうに。
――この身体は。
不意に、思い出した。昼間に見た夢が唐突に思い起こされた。そうだ。俺も沖田も同じ化物だ。俺がいれば、沖田がいれば、互いに"ただの化物"だった。
俺は沖田の胸から顔を上げて、へらと頬を緩める。


「…総司」
「……嫌だ」
「うん、だから、我儘を言っても、いい?」


――共に、在るために。
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