未来はいつも
自分でも不思議なくらい穏やかな心持だった。これから人を殺しに行くというのに、怯えも恐怖もなにもない。限りなく無に近い心情が、怖いと言う思いさえ無かった。
腰にぶら提げるこの刀は、とても綺麗だった。あの日浴びた血など嘘のように、刀身は月光を照り返し、曇りひとつない。ただ、そこに生々しい血生臭さだけを残して。土方はこの臭いに気付かないまま、血まみれの刀身を手入れしてくれたのだろうか。
「名前」
久しぶりに出た外の空気は、酷く胸に沁みた。空気に味があるとするなら、それはきっと少し塩と胡椒の効いた味。俺は食感などあるはずの無い空気を咀嚼して呑み込んだ。
そんな下らないことをしていたとき、少し離れた先を歩いていた沖田が俺を呼んだ。先頭にいる近藤が笑みを浮かべて手招いている。俺はその手と声に引かれるまま、最後尾から最前列へと移動する。彼は申し訳なさそうに眉尻を下げて、
「隊士でもない君の手を借りる事になるとは…いやはや、面目ない」
「いえ、何もせずぐだぐだと過ごすのにも飽きましたから」
「僕としては、君が足手まといにならなければなんでもいいんだけどね」
標準より高めの沖田のことを、俺のこの身長では見上げなくてはいけない。内心悪態を吐きながら睨むように見上げれば、彼は案の定薄笑いを浮かべてこちらを見ていた。
――一応、剣術の腕としては陽月に餞別だと言う形で叩き込まれた。
素振りでもなんでも、と言われたので独学で役に立つのかどうか怪しい素振りならば、欠かさずやっていた。真剣を握るのはこれが人生で二度目になる。
そう、たった二度目なのだ。
それなのにも関わらず、戦地に赴き刀を振るえという。これではなんの防寒具なしに、丸裸のまま極寒の地に投げ込まれるようなものではないか。頷き納得したのは勿論、俺の意思ではある。しかし、そこに恐らく拒否という選択肢など用意されていなかっただろう。その状況下の中で、俺はあの日初めて刀を握りましたなどと言えるはずが無い。
――この目の前の沖田という男と、既に手合わせ済みなのだから。
「…足手まといかどうか、沖田さんが一番知ってると思いますけど」
「そうだね。そこらへんの浪士よりは腕が立つけど、それだけだよ。君は、強くもなければ使えないほど弱いわけじゃない」
なんとも中途半端な回答をくれたものだ。弱いならば弱いと言われたほうが、まだ覚悟のしようがあると言うのに。――それはそれで、生き死にに関わるから、あっさりと切り捨てるわけにもいかないのだけれど。
俺は右肩に垂れる髪を背中に振り払い、べ、と舌をのぞかせた。
「死にませんし頼まれごとは完遂します」
「…頼まれごと? どちらかといえばただの死亡宣告だと思うけど」
「……相変わらずそのお口はおもしろーい冗談しか言わないんですね」
「ありがとう。冗談は苦手なんだ」
「ほめてないし」
つい皺の寄ってしまった眉間を指で伸ばし、近藤を仰いだ。沖田なんかと話していたら、お月様も面倒臭がって太陽が昇ってきそうだ。
「俺は、何をすればいいですか?」
「自分の身を守ってくれれば、それでいい。みんなで無事に、屯所に帰ろうじゃないか」
それは形だけは綺麗に言い纏められているが、要は役に立たないですよと言われたも同じであろう。――いや、これは俺の性格が捻くれているからなのかも知れない。近藤はいつものように穏やかに微笑みながら、みんなを見渡していた。
「…もうすぐ池田屋だな」
斜め後ろを歩いていた藤堂が、舌なめずりをしながら言う。身のうちに沸き立つ興奮を抑えきれないような、そんな突き刺すような殺気を肌で感じる。
俺はぶるりと身震いして、暑さに捲くっていた袖を下ろした。
「そうだ、名前君。早速君に仕事を任せよう」
「え?」
まっすぐ前を見つめていた彼は、少し強張った顔つきで「池田屋周辺の様子を見てきてほしい」と告げた。そんなもの、この世界の初心者の俺が言ったら討ち入りがばれて諸共死にますよ。そう反論したいのをなんとか飲み下して、俺は意見を出す。
「…割りに重要ですよね、その役割?」
「そうだな、どこにどれくらいの人数がいるのかの把握は必要最低限あるべき情報だ」
――ああ、これにも拒否権はなさそうだ。
俺は苦笑いを零して息を吐くと、「はい」と短く返事をした。後ろで「返事だけは立派だね」と聞こえた皮肉はこの際無視を決め込み、俺は右に伸びる狭い路地を小走りで走った。
とりあえず、池田屋周辺に潜む第三者的な存在の気配は無く、ゆらりと揺れる蝋燭が、いくつかある部屋の中で一つだけだったことを報告し、無事集団に戻ることが出来た。
それは、満月の位置から見るに大体戌の刻くらいのことだった。
「…こっちが当たりか。チッ…土方さんたちに連絡するか?」
「いや、山崎くんが動いてくれている。それにこちらはたった十一人しかいないんだ、戦力を分散しては無理があるだろう」
「でも近藤さん、会津藩も所司代もいなくてオレたちだけで突入は無謀すぎるって!」
一向に動く気配の無い役人に苛立ちが募る藤堂は、声を大にして近藤に言い寄った。彼も苦い顔のまま目を瞑り、低く唸るような声で呟く。
「……もう少し、待ってみよう」
その決定に顔を歪める者はいたが、反論するものはいなかった。――それから月も大分傾き、一時間は確実に経ったであろう時。誰もが苛立ちと不満を抱え、近藤と向こうの池田屋を睨んでいた。
「近藤さん、どうします? コレでみすみす逃しちゃったら無様ですよ?」
沖田は沈黙を貫いている近藤にそう言うと、近藤は刹那の思案を挟んで振り向いた。その表情に、ここにいる隊士全員が殺気立つのを感じる。柄に手を添え、やっときたかと獲物を捕らえる鋭い双眸を池田屋に向ける。
そんな彼らを見渡して、近藤は大股で池田屋に踏み込んだ。
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