未来はいつも
傷から発せられる熱が体を侵し、か細い呼吸を荒くさせる。心地の悪いまどろみは、不快感と痛みを増長させるだけだった。
苦しい。
それは痛いからなのか、呼吸ができないからなのか。はたまた、まだ手に残るこの感触からなのか。
よく分からないまま深いところに沈んでいくような気がして、喉の奥につっかえたまま吐き出せないそれが気持ち悪くて。俺は何の希望に縋りたかったのか、ふと伸ばしたこの右手を。
真黒い影が、にやりと嘲笑って掴んだ。
「…ッ!」
見慣れた古い天井。太陽の日差しが室内を明るく照らし、湿っぽい空気が肺を満たす。
俺は押し潰れて圧縮された肺を膨らませるかのように、瞬間息を多く吸い込んだ。――当たり前のように傷は悲鳴をあげて痛みを訴えるが、俺はどの感覚に集中していいのか分からず呆けていた。
痛みはある。息苦しさも、心地悪さも気持ち悪さもある。
けれどそのどれもが酷くぼやけて曖昧で、俺はそんな中漸く彼女を見つけた。
「…ッ、名前、君……!」
「……ち、づ…?」
からからに渇いて張り付いた唇では、うまく声がでてこない。自分でははっきりと言ったつもりが、頭の中で反響した声はあまりに情けなかった。彼女は、掴んでいた俺の右手に額を当てて、何度も何度も良かったと呟く。俺には、それがなにかのつまらない映画のワンシーンのような気がした。
遠い。
現実と意識が繋がらない。
「…っ名前、君が、死んじゃう…っか、と…思っ――!」
彼女は俺のために声をあげて泣いてくれている。生きていてくれてよかったと、何を大袈裟なことを言っているんだと頭の中で非情な誰かが嗤っている。それでも確かに、この痛みとあの惨劇を思えば、千鶴が泣いて呟く言葉の意味が分かるような気がした。
いや、分からないわけが、ないのだ。――あの時どれだけ、彼奴に生きてさえいてくれればと願ったことか。
「…ちづる…、ごめん…な」
怖かった。ただ、ただ、怖かったんだ。殺意で以って振り下ろされる刃が。この手が肉を裂く感触が。飛び散る血飛沫が。痛みと恨みと悲しみに叫ぶ声が。
とても、怖かった。
再び閉じた瞼の隙間から、熱い何かが溢れ出す。
止め処なく、溢れて、溢れて、零れて。
それらを隠すように目元に宛がった左腕を伝い、頬に出来たかすり傷に染みてツキリと痛んだ。
「…俺……。まだ、生きてる……っ」
千鶴が息を呑んだ音が聞こえた。耳元で彼女が嗚咽を呑み込み、俺の右手を強く握る。その手に出来た肉刺も、隠してくれるように。
俺は、結局。
何も出来ないまま、いたみに耐えるしかなかった。
障子の向こう側で、彼らは顔を見合わせていた。手に持った小さな土鍋とは不釣合いな雰囲気を漂わせ、部屋から聞こえてくる嗚咽に眉尻を下げる。はあと重たい溜息を吐いた彼、永倉は、隣に居る山崎の顔を盗み見た。しかし流石監察方といおうか、その視線にすぐに気が付いた彼は顔を僅かに歪めた。
「…粥が冷めますよ」
「…んなこたあ分かってるよ。だけどよ…今部屋ン中入ってみろ、俺らの好意虚しく、白けるぜ」
山崎は歪んだ口元をまた下げて、永倉の手の中にある土鍋と部屋とを交互に見遣る。それから下唇を少し噛んで、口を開けた。
「…名前君、起きているか」
彼の声に少しの間をあけて、名前よりも高い少女の声が返事をした。その返事に二人は再び目を合わせ、ゆっくりと山崎が障子に手をかける。
傷口に障るかもしれないという理由で殆ど閉め切っていた室内は湿っぽく、このほうが反って体調を悪くさせてしまうんじゃないかと彼は眉根を寄せた。
千鶴の手を借り起き上がっていた秋は、ぎこちない笑みで彼らを迎えた。
一週間ぶりだ。
その笑顔さえ懐かしいと思えるほど、とても長いものだったような気がする。
隣であからさまに息を吐いた永倉を横目に、彼も目を細めて問いかけた。
「気分はどうだ? 目を覚ましたばかりであまり腹は減っていないとは思うが、一週間寝ていたんだ。消化の良いものを食べるといい」
原田が散らかしたであろう文机に広がる硯やら半紙やらを隅に退け、そこに土鍋を置く。まだうっすらと立つ湯気に湿度が増すような気もしたが、やはり温かいほうが美味いだろう。山崎はその隣に湯のみと石田散薬の乗る盆を並べ、新しく水の張った桶と千鶴の手元にある桶とを交換して立ち上がった。
「斎藤と山崎が態々お前のために作ったんだ。ちゃんと飯食って、とっとと治せよ。んじゃ、俺らは戻るが何かほしいもんとかあるか?」
「んーん……有難う、永倉さん。烝君」
山崎は気にするなというような笑みをうっすらと浮かべて、永倉はこそばゆさを隠すためか大口で笑ってみせた。二人はそのまますぐに部屋を出て行き、また静けさが部屋を襲う。千鶴は名前の背をゆっくりと布団に預け、その額に濡れた手ぬぐいを置いた。
ああ、そうだ。ちゃんとご飯を食べて、いっぱい寝て。早く一人でも起き上がれるようになって。
そうしたら、沖田さんに謝りに行こう。
頭の中がボーっとしてきて歪み始めた視界で、最後に千鶴が呟いた。その言葉に返事をしたのかしなかったのか。よく覚えてはいないけど、とても温かかったのだけは覚えている。そうしてぷつりと途切れた意識は、暗い海に放り出された。
「何を求めるの。何を望むの。どうせ叶わないのに」
「人を――す感触なんて、最初から知っていたじゃない」
貴女はいつも、嘲笑いながらそんなことを言う。もう諦めろと、何の意味があるんだと俺に問うてばかりの声だ。俺はそれらの本当の意味を何一つ知ることもなく、答えることも出来ず。ただその問いかけはあまりに息苦しくて。俺は耳を塞いで目を瞑り、息を殺した。
そうすれば、この夢から逃げ出せそうな気がして。
「逃げるの、名前?」
俺の心臓を射抜くその声は、焦がれて止まないものだった。俺は耳を塞ぐ手を伸ばし――君に少しでも触れようとしたけれど。
何かに触れたところで、ただひたすら続く真黒い闇に突き落とされた。
「――き、ら……」
寝言が頭の中ではっきりと響く。俺ははっと目を覚まし、厭なくらい速い心音を刻む心臓を押さえつけた。視界を左右にずらせば、そこには黒い髪の彼女ではなく。
「…名前、大丈夫か?」
心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる藤堂の姿があった。彼は耳元で涼やかな水音を立たせ、熱っぽい額に冷たいそれを乗せる。俺は藤堂の言葉にゆっくりと頷き、ふうと細く息を吐いた。俺の右手が布団の上に放り出されているのを視界の端に映して、厭な夢だとぼそりと零した。彼は頭上に疑問符を浮かべこちらを見遣るが、それから何を思ったか両耳を赤く染めてそっぽを向く。
「…藤堂、さん?」
「……あー…いや、えと…っ目! 目ぇ覚ましてよかったよ! お前一週間もずっと寝てたんだぜ、みんな心配したんだからな!」
あからさまに逸らされた話題に今度は逆に俺が疑問符を浮かべ、藤堂から視線をずらして文机の上にある土鍋を見た。障子の向こう側は薄暗く、傍から見てもそれは疾うに冷め切っていた。
「…うん、有難う。迷惑を、かけました」
その言葉に藤堂が息を詰めたのを聞いた。振り向けば、少し機嫌が悪そうに口元をゆがめていて。俺はえ、と目を見開いて彼を凝視した。何かまずいことでも言っただろうか。
「迷惑とかさ、そういうのやめろよ。名前はオレらのことなんて思ってるか分かんないけど、少なくともオレは、一緒に池田屋行って戦ってくれたから、名前はどうでもいい他人なんかじゃない」
「っ、」
なんて単純で明快で。普通は疑ってかかるべき相手ではないのだろうか。おめでたい奴だとか、後悔しても知らないよとか。浮かんだ皮肉はどれも嘘っぱちで、本当は誰よりもそんな言葉を望んでいた。
俺は鼻の奥がツンとなるのを感じて、咄嗟に腕で瞼を覆った。
「…馬鹿だな、あ……藤堂さん、は」
「平助」
不貞腐れたような声音で今度は自身の名を呟いた。俺はず、と啜った洟を隠して、彼を見上げる。
「平助で、いい。――敬語なんかいらねえから」
胡坐を掻いた膝の上に手を置いて、ほんのりと赤みを帯びた頬を隠すように横を向く。さっきから照れたり怒ったり、忙しい人だなあ。
俺が小さく零した微笑に、彼は益々赤みを増した。
「っあぁもう! 飯食う!?」
彼は半分自棄になった口調で土鍋を指差した。俺はまた吹きだしそうになった笑いを呑み込んで「うん」と答える。彼は俺の肩と手を引っ張りながら起き上がらせ、文机を引きずって寄せた。すっかりと冷えてしまった土鍋の蓋を開ければ、卵とねぎと味噌の香りが一週間ぶりに働く食欲をかきたてる。合掌をしていただきますと言えば、腹がきゅうと声をあげた。
「足りなかったら作ってやるよ」
腹を抱えて笑いながら彼はそう言うが、生憎とそこまで食べられるほど胃に余裕はない。俺は少しの恥ずかしさに口を尖らせながら「いらないよ」と頭を振った。
口に頬張ったご飯は、酷く懐かしくて優しい味がした。
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