来はいつも

冬に起きた銀色の奇跡 2 / 2


もしも心臓の裏側に重さのない臓器があるのなら、きっと今痛んでいるのはそれなのだろう。寒さのせいだけではない喉のひきつりを覚えた。
生まれ変わりなんてものは、現実としてそんなものどうでもよかった。前世というものがあったところで今世の生まれは変わるはずもなく、境遇も事情も、そんなたった一つの要因によって、しかも過去からなされた一因に何ができるというのか。そんなもの、心底どうでもよかった。そうだというのに、そう思っていたというのに、見知らぬ男を前に懐かしさを覚えている。このたった数キロの脳のどこかで、彼を懐かしんでいる神経がいる。
目の際からこぼれ出た熱は無意識で、彼はその涙に安堵にも似た表情を見せた。


「…約束をさ、果たしたかったんだ。もう無理だったけど、最後くらいはと思って。でも、もういいね。もう、俺のことも、今日のことも、全部お互い忘れてしまおうか。それが、きっといい」


最善だ。
彼は帯にかけていた指を伸ばして、俺の頭に触れた。外の気温のせいなのか、雪の中に埋もれていたかのような冷たさに肩が震える。
――彼も、春も、俺は知らない。どこかで一抹の記憶が泣いていたとしても、それは俺じゃない。忘れたところで明日から支障などなく、また、いつも通りの味のない時間を浪費していくだけだ。
涙は一向に、止まらなかった。


「――忘れないでおこうよ」
「は?」
「俺がここにいた今までをあげるから、忘れないでおこう。それで、あんたは死ぬまで覚えておこうよ」
「…何言ってんだお前」


額を包む指先が僅かに震えていた。
――本当に、何を言っているのだろう。けれど、そうだ。おそらく彼は春という誰かを好ましく思っていて、俺にはそれが羨ましく思えたのかもしれない。そうであったというのなら、二人の間に流れていた時間を失くしてしまうことはひどく胸が空いてしまいそうな気がしたのだ。
涙はいつの間にか乾いていて、その通り道が北風にさらされて凍ってしまいそうだった。


「俺は春になれないけど、それなら、春に会いに行こうよ」
「…死んだ奴になんか会いに行けるかよ。世界の層が違う」
「神様なのにできないことあんだ」


思わず力なく笑ってしまった。
もう、今までの生きてきた道筋のどこにも未練など残ってなどいなかったのだ。
いわゆる代償というものを払えば願いが叶うというのなら、最後くらいそんなふざけた夢を見てもいいのかもしれない。


「春は、何時代の人?」
「――江戸、だったが」
「じゃあ、江戸に行こう。そうしたら、あんたと俺は兄妹でいい」
「今までの全部ってことは、お前がここで生きてきた全部ってことだ。そうしたら、もうここには戻ってこれないんだぞ」
「戻ってきたい未練もない。誰かの役に、必要と、される世界に、行ってみたいってちょっと思う…」


この世界は息苦しすぎた。
林立するビルの群れの、横断歩道に置いてきた呼吸は、もうずっと止まっている。
彼は何かを話そうと口を開いてから、やめた。ため息じみた息を吐きだして、堪えきれずにといった風に笑っていた。


「……馬鹿だなァ、この名前は」
「このってなに」
「こっちの話。じゃあ、俺はもう聞き入れちまうけど、いいか?」


なんだっていい。
適当に頷いてみせれば、彼はぱちんと指を鳴らせて刀を一振り呼び出した。マジシャンのようだと思うし、本当に次元の違う者だからこそなのかもしれない。刀をこちらに差し出すと、彼は初めて眉間に皺を寄せた。


「餞別だ」
「そういう顔じゃないんだけど」
「いろいろあんだよ」


ぐいと半ば押し付けられるように渡された刀は、重かった。もっと軽いものだと思っていた。誰かの使い古した一振りなのか、柄は擦り切れていて、それでもなんだか握りやすかった。


「身体もそれなりに合わせといてやるさ。まあ、勝手に動くような感じがして気持ち悪いだろうが」
「…そういえば、あんた名前は?」
「ない。適当に呼んで」


あっけらかんと言い放った彼に何度か瞬きをしてから、飲み込んだ。まったくもって目の前の男の奇妙なることかと思いはしたが、これから起こるのだろうことを考えればそれも些細なことだった。


「…じゃあ、陽月」
「…目線が頭にいったのは見逃してやる」
「ばれた?」
「どうせ黒猫にクロって名付けるだろお前」


はっと鼻で笑われた声に、目を伏せる。そういうセンスは元からなかったなあなんて思い出して、彼につられて笑った。


「それじゃ、行くか」


彼は俺の頭をもう一度鷲掴みにすると、三秒数えて目をつぶれと悪役さながらなセリフを吐いた。

目を閉じる前、ふっと白い何かが視界を掠めた。
それが雪だと分かったとき、俺の意識は真っ暗な世界に突き落とされた。


冬に起きた色の奇跡

20200705 修正
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