来はいつも

吐いた言葉は檳榔子染色の嘘 1 / 3


俺が目を覚ましてから一週間が経った。
相変わらず蒸し暑い日々が続き、暫く日干ししていない布団が重みを増してきた気がする。漸く落ち着きを取り戻した周りの時間に、置いていかれているような焦りを覚え、それでもやっと繋がった意識と現実が切れてしまうのではと思うとこの体を無理に動かすことはできなかった。


ちりん。


いつぞやか藤堂が巡察に行った帰り、嬉々としながら持って帰ってきた土産の風鈴が、ゆるい風になびいた。澄んだ心地よい音は、風と共に耳元を撫でた。
俺は顎を少し上げ、障子の隙間から覗く青を見上げる。
悠々と流れる白い入道雲は、あの日々と何一つ変わってなどいなかった。
――不意に、視界は翳り青が遮られる。


「…左之さん」


ついこの間まで原田さんと、そう呼んでいたのだが、なんだかこそばゆいから止めてくれと言われたので結局この形に収まった。そんな派手な赤い髪をした彼は、どんぶりと湯飲みを乗せた盆を片手に俺を見下ろしていた。
俺は瞬きを一つして、ゆっくりと起き上がる。傷も徐々に塞がりつつあるからか、この動作も最初ほどの苦痛を感じなくなった。だからといって全く痛みがないかといわれれば、勿論歯を食いしばるような鋭い痛みはある。
原田は文机に盆を置くと、俺の肩を支えながら湯飲みを手渡した。


「調子はどうだ?」
「ん、ぼちぼち、かな…でも、大分よくなってきましたよ」


そりゃあ良かった、と彼は肩から手を離して、どんぶりを畳に置いた。どうやら今日の昼食はお茶漬けらしい。夏だからと割りに冷たいお茶の中に白米が沈み、海苔とほうれん草、朝食の鮭が控えめに乗っていた。盛り付けの細やかさから見るに、作ってくれたのは斎藤だろう。
俺は両の手を合わせていただきますと言ってから、レンゲで米を掬った。


「にしても、今日は日差しが強ぇな」


庇の向こうでは燦々と照る太陽に焼かれ、水に飢えた植物が萎れていた。確かに昨日に比べ日差しは強いが、アスファルトの照り返しがない分まだましである。
レンゲを口にくわえながら、こめかみに汗を浮かばせる原田を見やった。
――二十五度前後、といったところだろうか。この時代にしては、やはり暑い方なのかもしれない。


「…昼の巡察から帰ってきた隊士が、みんな日焼けしてたら、面白いのに」
「ま、異様に白い奴も居るからな。ぶっ倒れなきゃあ、それでいい」
「塩分と水分、ちゃんとこまめに取ってれば大丈夫ですよ」


俺はいつも通り何の気なしにそう言い、半分ほど食べ終えて一息吐いた。動かないからなのかあまり腹は減らず、食欲もさしてわかない。けれど勿論残してしまうなんていうことは申し訳ないし、何よりこの時代、この屯所には食材に余りはないのだ。食べればその分、寝たきりだった体力も戻り胃も膨れるだろう。
そんなことを考えながら再びお茶漬けを口に運んだところで、原田がこちらを見ていることに気が付いた。


「…? 海苔でもついてます?」


唇を指で拭えば、彼は首を横に振って淡く笑った。


「違ぇよ。何で暑くて塩分なんだ? 水だけでいいじゃねえか」
「ああ、その話。えっと、汗には体内の塩分も、含まれているんですよ。だから、口から塩分を摂取して、出て行っちゃった分、取り戻すんです」
「…お前寺子屋でも通ってたのか?」
「――え、あー…勉強は、昔から嫌いじゃなかったから」


人並にですけど、と付け加えてから、原田の心外な目つきに苦笑いを一つした。空になったどんぶりを文机の上に戻す振りをして、彼の視線を避けた。
自分自身が持っている知識が、この世界では持ち得ないものであるということを理解するたび、言いようのない不安に押しつぶされそうになる。この道を選んだのは紛れもない己自身であるのに、時たまこの意思はゆるゆるとたゆたうのだ。
俺は零れそうになった溜息を呑み込んで、代わりにきつく拳を握った。

心地よい満腹感にうとうととする目をこすり、障子に背をもたれる原田を見遣る。彼は外に広がる高い空を見上げながら、ぽつりと呟いた。


「……厭な予感がすんな…」


唐突にそんなことを呟いた彼は、ゆっくりと目を閉じ、息を吐く。そして徐に立ち上がると、空になったどんぶりと湯飲みを盆の上に乗せ持ち上げた。


「悪ぃな、変な事言って。んじゃ、これ下げてくるわ」
「あ、ちょ左之さ、ん――」


原田は俺の声も聞かず、そのまま足早と出て行ってしまった。なんなんだ、と俺は思わず呟いてしまってから、彼と同じように空を仰いでみた。もしかしたら、その視線の先に何か見つけたのではないだろうかと期待してみたものの、空を見ても庭を見ても、それらしき影はない。俺はなんだと少し肩を落として、もう一度部屋に戻ろうとしたとき。


「……、…――」
「…え?」


声が聞こえた気がした。言葉とは程遠い音が耳をかすめ、俺は振り返る。やっぱり、そこには何もなくて。
俺は気のせいともなんとも言いがたい思いをぶら提げて、布団にもぐりこんだ。この胸に過ぎった刹那の不安は、きっと原田が変なことを言い残してしまったからだ。

この先もずっと、変わるはずのない予定通りの未来を迎えるはずなのだから。

見知った世界の先に、何の不安を抱えるというのだ。
半ば押し付けるようにした疑心を、ぐちゃぐちゃにしてなかったことにしようとした。
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