来はいつも

吐いた言葉は檳榔子染色の嘘 2 / 3


ざわざわと人の声が聞こえた。
それはどうにも穏やかなものではなく、時々誰かの怒号が廊下に反響する。俺は布団の中を二度三度もぞもぞと動いてから、漸く薄らと目を開けた。灯した覚えのない蝋燭が、視界の隅でゆらりと震えていた。


「名前、おはよう」
「……うわ…」


思いもよらなかったその姿を見つけてしまい、俺はつい零れてしまった声を呑み込みそびれた。目の前の彼は唇を尖らせて俺の反応に文句を言っているが、そんなことよりも何故彼がここに居るのかという疑問のほうが先立つ。俺の疑問が分かったのか、沖田は少しだけ顔を歪ませ、棘のある声で答えた。


「新選組と長州勢が喧嘩してるんだよ。それの対処に各隊が動いてるんだ。直に平助も来る。…こういえば、分かるでしょ?」


彼は恐らく無意識であろうその右手を、自身の胸に押し当てていた。
左隣に置かれた刀の意味を、新選組がここに居る意味を、彼が刃を握る意味を。それらを否定されることを恐れぬ者など、きっとどこにもいないだろう。目の前に居る、この捻くれた天邪鬼な沖田でさえ、存在意義を否定されることを恐れているのだから。
俺はゆっくりと瞬きを一つして、上体を起き上がらせた。
屋敷内で聞こえる怒声が、酷く遠い声に聞こえた。


「…山南さんの、指示ですか」
「斬られるような心当たりでも、あるの?」


わざとこちらの反応を窺うような問い方をする彼の心の中は、きっと赤く血塗れている。そう感じるのは少なからず己の立ち位置からであって、数ヶ月経とうが信頼などというものには程遠い人間であることなど十分理解している。彼ら――山南などは特に、今起きている事に俺や陽月が関わっているだろうと踏んでいるはずだ。
だからこそここに沖田と藤堂が集まるのだ。
それでなければわざわざ俺の部屋に集まる必要などない。
俺はしばしの思案を挟み、緩く口元に弧を描いた。こちらの回答など、彼らにとっては無価値に等しい。それに、無罪を主張する容疑者の発する言葉はどれもありきたりでお決まりの表現だ。理解はしているが、やはりそれ以上に適当な表現は見つからなかった。


「…俺は、何もやっていませんし何も知りません」
「まあ、当たり前だよね。手の内を明かすような性格じゃないっていうの、最初から分かりきってるから」


そういうところは僕らに似てるよね。そう話す彼の表情はいたって無邪気で自然体で。
俺は柔く下唇を噛んで目線を逸らした。
昔から口下手で、思っていることの半分すら言葉にできなかった。けれどだからといって理解してもらおうとも、もっと言葉を重ねようとも思わなかった。
――それでも、不自由なく困らなかったから。
でも、今はこの会話力の乏しさが何よりも疎ましく思ったのだ。


「俺は、俺…は――」


再び口を噤み、拳を固めたそのとき。


「名前、総司、いるか?」


抑揚のない声と共に障子は開かれ、会話がせき止められる。そこにいたのは至極つまらなそうな顔をした藤堂だった。彼は額に巻かれた包帯を気にしている風で、室内を見渡してから俺と沖田の間に腰を下ろした。


「巡察に行った三番組と五番組が三条大橋、援護に向かうはずだった十番組が屯所前の大通りで小競り合いしてるみたいだ」
「他の組は何してるのさ、まさか、こぞって高みの見物?」
「んなわけねえだろ。新ぱっつぁんが一番組と二番組引き連れて別の道から三条大橋向かったよ。長州勢が何人いるかとか、三条大橋のほうは全然情報が入ってこないんだよね。山崎くんも戻ってきてないみたいだし…」


彼の様子から察するに、あまりよくない状況らしい。それでも藤堂がここまで落ち着いて話しているところを見れば、それほど大きな規模で襲ってきてはいないようだ。
俺はどこかで少しだけ安堵するのを感じて、右手を握り締めた。
久しく遠ざかっていたあの感触が、背中の痛みとともにじわりと忍び寄ってくる。頬に張り付く嫌悪感を思い出したせいで、胃の中のものが食道を通って逆流してきそうだ。
蝋燭の揺らぐ炎をじっと見つめていた沖田は、不意に障子の向こう側を鋭く睨んだ。


「…どうしたんですか、おき、た――っ?」


確かに、はっきりと、自分の声に重なってそれは聞こえた。二人も同様に聞こえたそれは――紛れもない、人の叫び声だ。尋常でないその声は、死の瞬間に足掻くあの断末魔によく似ていた。
屯所前の大通りで小競り合いが起きているのは先ほど聞いたが、それにしてもこの声はあまりに近すぎる。しかもそれを皮切りに、次々と断末魔に雄叫び、剣戦の音が俺達の耳に届いた。
どちらのものなのか、とにかく大勢の足音が地響きとなって畳を揺らす。沖田が蝋燭の火を吹き消し障子を開けた頃には、既に屯所が戦場と化していた。

遠いような近い場所で、確実に誰かが死んでいる。
血生臭い独特の臭いが、鼻を衝いた。


「…何で屯所に長州勢が……っ!?」
「左之さんたちが押し負けたとは思えない…。多分隊を分割して各所で攻めてるんだ」
「でも屯所にはまだ隊員が残ってるはずだろ!? なんでこんな易々――ッ総司!!?」


いつの間にか刀を腰に差し、彼は俺たちに一瞥もくれずに駆けていった。行き場所などひとつに決まっている。何のために三人がここに集まったのかの意味も忘れ、ただ自己満足に走る沖田の背中は酷く焦っていた。
俺は適当な羽織に袖を通し、壁に立てかけてあった刀を腰に差す。その手を、藤堂が力強く握り締めた。


「おい名前! お前までまさかいくつもりかよ!?」
「っ、沖田さん、すぐに連れ帰ってくるから!」
「そういう話じゃ――っ名前!! 馬鹿お前まだ傷が――!!」


後ろで叫ぶ藤堂の伸ばした腕が、虚しく空を切る。俺は床を強く蹴って、二又の廊下を左に折れた。
追いつかなければいけない気がした。
意思も思考も全部を、どこかに置いてきてしまったような。病み上がりのはずなのに軽い足が、ひたすら前に進めと叫んでいる。
ぬるい夏の夜風が、ふわりと頬を撫ぜた。


「……ああ、もう…っ!」


なぜ予定にない戦いが起こるのだ。この世界の未来は、確定された絶対的なものではなかったのか。
俺はほんのり血の味のする唾液をごくりと飲み込んだ。不確定な未来とは、これほどまでに恐ろしかっただろうか。叫び声が大きくなる。血の滴る音が、人を殺す音が。
ただただ、俺に現実を伴って眼前に飛び出してくる。
視界の端で、見慣れた着物を見つけた。
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