未来はいつも
例えるなら、糸に操られた人形のような。指の先までも、自分のものではない感覚が脳内を支配する。一瞬でも気を失えば、あるはずのないもう一つの何かに意識を持っていかれそうで。
引き抜かれた目の前の刃に、何よりも自分自身が驚いていた。
キィン!
再び間合いを取ってから突っ込んできた相手の刃を鍔で受け止め、そのまま刀身を横に流して腹を一文字に切り裂いて抜ける。あの断末魔がキンと頭に響き、思わず耳を塞いだ。
左頬に飛び散った返り血が顎を伝って床に落ちるのが、視界の端に映る。
ああもうきっと、どこにも戻れない。
この手の感触が、唯一の居場所のような気さえした。
「名前君…!」
部屋から顔を出したのは赤い右肩を抑えている千鶴の姿だった。俺は羽織を脱ぎながら彼女に駆け寄り、右肩から斜めに羽織をかけて左脇腹で両袖を縛る。
「大丈夫?」と俺が声をかけるより先に、彼女は俺にしがみついて控えめに声をあげた。
「傷は…傷は、大丈夫なんですか!?」
「うん、全然。なんか痛くないんだよね」
千鶴の腕をやんわりと解いて頭を撫でてやれば、少し頬を染めて「無理はしないで下さい」と呟いた。それから律儀にもお辞儀をしてまでお礼を言うものだから、俺はこみ上げてくる笑いを抑えられずに零す。
「っはは! 相変わらず律儀だなあ。よし、大丈夫なら、先に進もう」
俺は彼女の手をとって、部屋の中に戻る。廊下を二人で歩くよりはまだ安全ではと考えた結論だったが、今はそれに悩むほどの猶予はなかった。
畳に広がる赤いそれをまたいで、部屋を内側から経由しながら移動し始める。
時折血の引きずる跡があったが、周囲に二人ばかりの浪士の遺体だけが転がっていた。
裸足ゆえにそれらのぬめりとした気持ち悪さを直に感じ、胸の不快感は進むにつれ増して行く。この状況で怯えているのか喋ってはいけないと思っているのか、千鶴はひたすら無言を貫いていた。
忍び足ながらも響いてしまう二人分の足音に、異色の音が混じって聞こえた気がする。俺は一瞬立ち止まりたい気持ちを抑え、急ぎ広間へと足を進めた。
***
名前が千鶴の許に行ってしまったから仕方なく平助のところへ戻ると、彼は子供のように拗ねていた。唇を尖らせたまま名前の不在を訊ねられたので今までの経緯を話せば、今度は焦りのような怒りのようなよく分からない表情を浮かべて刀を腰に差すと、早々に沖田を追い抜いて走っていこうとする。
はあと溜息が零れるのは、きっと場違いなんだろうけど。
それでも平助のこの単純さはどうにかならないものだろうか――。
そんなことを思いながら千鶴の部屋に行けば当然の如くそこに誰の姿もなく、ただ一つの死体だけが転がっていた。平助が部屋の中に入れば、開け放たれた襖の向こうに続く赤い点を見つけた。
「…足跡、だね」
「行ってみよう」
足跡を追わなくても大体の行き先は思い浮かんでいたけれど、どっちにしても行き違いは避けたいので後を追いかけることにした。
頭の中で、名前の言葉が浮かんでは消える。――初めて会ったときから、よく分からない、言いようのない感覚を覚えていた。それを既存の言葉で言い表せられる程学があるわけではないし、知っている語彙のどれを探してもしっくりこなかった。
でも幹部方とあの三人とで話をしたその夜に、土方がぽつりと零した"違和感"の言葉が頭を離れずに胸の奥に残っていた。どれだけ考えたところで結論なんてでないし、実のところそこまで興味があるわけではない。名前に対してあんなことを言ってはみたけれど、間者だろうとなんだろうと沖田の仕事はただ斬り殺すことだけだったから。
――興味が、あるわけではないはずなんだけど。
それでもどうしてか、頭の隅でいつまでもつっかえて拭えない。
隣を歩く平助君の言葉に適当な相槌を打って、鼻に衝く血の臭いに眉を寄せた。左右に分かれる廊下の突き当たりで立ち止まる平助を置いて、右に曲がった。
おそらく名前は、みんなが集まっているだろう広間を目指している。残念ながらそこにはもう誰も居ないのだけれど、そんなことを知らない"彼"ならそうするだろうと思ったから。
「…ッち――!」
そう遠くない、寧ろとても近いどこかから、切羽詰ったような名前の声と、今にも泣きそうな千鶴の声が聞こえた。あ、と思った僕よりも先に、平助は駆け出していた。
釣られて一歩踏み出したとき、目の前の襖が吹き飛んで、浪士の一人が廊下に転がる。沖田達はすぐさま駆け寄り、刀を床に突き立ち上がろうとする浪士を後ろ手に締め上げ、部屋の中に視線を向けた。
「っ名前! 千鶴!」
羽交い絞めにされた名前と首に刀を宛がわれた千鶴の姿が、そこにあって。
素早く刀を抜けば、二人の浪士はケタケタと"新撰組"の彼らを思い起こさせるような笑い方をした。"彼"はこちらの姿を見つけると、拘束する浪士の足を思い切り踏みつけ、一瞬の隙を突いて肘打ちを脇腹に決める。力が緩んだ腕の中から抜け出して回し蹴りを側頭部に食い込ませると、瞬時に抜刀し今度は千鶴の首もとの刀を弾いた。浪士は体勢を崩し一歩後退すると、"彼"は彼女の手を引いて背後に回す。
「…くそっ」
野太い声で吐き捨てた声に、名前は薄ら笑いをその口元に浮かべた。
「…赦さない」
振り上げた刃が、一瞬躊躇うように止まってから振り下ろされる。噴出す血飛沫が、天井に跳ね返り畳を赤く染めた。
名前は背後で泡を吹いたまま気絶した浪士を一瞥し、懐から懐紙を取り出して刀身を撫でた後鞘に納めた。
「沖田さん、彼、ついでに縛っといてください」
左頬の返り血を手の甲で拭い、振り向いて千鶴に笑いかけた。
「怪我、してない? 千鶴ちゃん」
この血の滴る部屋で、他人の血を浴び、それでも尚笑っている"彼"の笑みは、まるで彼らに怒っていたような、それが清々したかのような、そんなふうだった。
隣にいた平助が、目を瞠ったのが分かった。千鶴は名前の問いかけにあからさまに怯え、視線を落とした。
きっとそれが、当たり前の反応なんだと思う。
人殺しを目の前で見て、へらへらと笑っていられるほうがおかしいのだ。
――まあ、どれも沖田たちが言える立場ではないのだけど。
「…、ごめんね、千鶴ちゃん」
そんな彼女の反応に名前は少し目を伏せ、背を向けて歩き始めた。
「どこ行くの、名前」
「…広間のつもりだけど…もしかして、誰も居ない?」
気絶した浪士を縛り上げながら、ふらふらと歩く"彼"を見上げる。名前は困ったような顔をしてそう聞くものだから、思わず零れた笑みのまま「経験積んだんじゃない?」と答えた。それに思い切り厭な顔をして「そんなのいらねえ」と呟いて部屋を出ると、外に向かって歩き出した。
屯所内に浪士の気配はなく、どこまでも淀んだ空気が漂っている。沖田が玄関の引き戸を開けると、生ぬるい、湿った風が頬をなぜた。寧ろ気持ちがいいくらいのその風は、噎せ返るような血の臭いを一瞬でも忘れさせて。
未だ顔を伏せたままの千鶴から発せられる重苦しい空気の所為か、斜め前を歩く名前の歩みが遅くなる。
そんなの気にしなければいいのに、と思ってしまうけれど、やはりよく分からない感情だった。
前川邸前で待機している土方さんが、こちらに気付いて目を細めている。前川邸の門を抜ければ、そこには土方さんに山南さんがいた。こちらを睨みつけるように見る土方さんの視線が、一瞬名前に向いた後、八木邸に向けられる。
「…どうだった」
「隊士たちの部屋あたりが一番酷いですね、襖も畳も全部変えないと。浪士は他にいないと思いますよ。八木邸前で捕縛している二人以外は、全員名前が殺しちゃったので」
いつもならここで、名前の声が上がってもいいはずなのに。何も応答のない背後の名前に、思わず振り返った。"彼"はひたすら深く俯いていて、時折息の乱れるような声が聞こえる。
名前の名前を呼ぶより先に、千鶴の悲鳴じみた声がそれを遮った。
「っ傷が――!!」
がくりと膝から崩れた名前は、地面に手を突いて苦悶の声を漏らす。紺鼠色の着流しに、より暗い色が背中を斜めに走っている。
それは先日池田屋で受けた傷に沿うように、赤黒く染まっていた。
「っ土方さん、前川邸は!?」
平助が"彼"の肩を支えながら土方さんにそういうけれど、千鶴と名前に知られてはまずいこと、血塗れの名前たちが前川邸に入ること、全てを踏まえたうえで土方さんは顔をしかめた。
それでも目の前の怪我人を放っておけるほど、今の土方さんは鬼にはなりきれなかったようで。渋々、といった様子でそれに頷いた。
――後ろの山南さんは、相変わらず怖い顔をしていたけど。
「総司、お前もだ」
「……なんでですか、今大通りでもめてるんですよね?」
「本調子じゃねえお前を送ったところで足手まといだ。いいから休んでろ」
「…ッ土方さん、」
喉の奥から唸るような声で土方さんに詰め寄ろうとすると、不意に着物の袂を掴まれた。見下ろせば、それは傷だらけの名前の手だった。
「……お、きた…さん」
かすれた声が、名前を呼ぶ。
その後に続く言葉を聞いたわけでもないのに、既に諌められたように剥いた牙をもがれてしまっていて。土方さんに反論する気持ちも丸められて、彼らしくもないなと溜息を吐いた。
分かったよ、と呟けば、名前はゆっくりと見上げて薄く笑った。
戻 | 目次 表題 | 進