未来はいつも
前川邸の中は、今までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。足音一つせず、誰かが居るような気配もない。
まるで異世界にでも足を踏み入れたような、異様な雰囲気を漂わせていた。
ここに何がいるのか。
それを知っている沖田と藤堂は、互いに一瞬視線を合わせて邸内にあがった。
土方の言っていた一番手前の部屋の襖を開ければ、微かに埃っぽい臭いが鼻に衝く。千鶴が押入れから布団を引き出して敷けば、藤堂は背中がつかないようにゆっくりと名前をおろした。横を向かせた状態で寝かせ、一先ず全員が息を吐いた。
「……それで、どうすりゃいいんだ? 千鶴」
「え?」
名前の傍で正座をしていた彼女は、突然呼ばれてはっとすると、"彼"の額に手を乗せてから呟くように言った。
「少し、熱があるみたい。…水の張った桶と、手拭をあるだけ…あと、できれば包帯をお願いします」
彼はそれに頷いて、早々に部屋を出て行った。残された沖田は出入り口に近い壁に寄りかかったまま、視線を外に向けていた。
重苦しい沈黙、と感じるのは、恐らく千鶴が負い目を感じているからだろう。
純粋に向けられた優しさを、自ら顔を背けて拒んでしまった弱さを。
彼女は零れ落ちそうになる涙を必死に拭い取って、ぽつりと零した。
「…私、きっと名前君に嫌われちゃいましたよね…」
最低です、私。
彼女の声が、両膝の上で固めた拳が、小刻みに震えていた。沖田は千鶴を一瞥し、小さく息を吐く。
「嫌われるようなこと、した覚えでもあるの?」
「…名前君は、ただ私を助けてくれただけなのに。私は…名前君の手を握ってあげられなかった、名前君のこと、ちゃんと見られなかった。
……怖かったんです、名前君の笑顔が。あんなに優しい人を、私は――怖いと、思ってしまったんですっ……」
それがどれだけ、"彼"の心を傷つけてしまったのだろうかと。助けてもらったくせにお礼の一つも言えず、ましてその手を振り払ってしまうなんて。
千鶴は下唇を噛み締めて、零れそうになる声を呑み込んだ。
沖田は少し黙り込んで、それから名前を挟んで千鶴の反対側に腰を下ろす。
「…名前は、厭だと思ったことも嫌いだと思ったことも、はっきり言うよね。僕は左之さんや千鶴ちゃんみたいに長く一緒にいるわけじゃないけど、それくらいなら知ってるよ」
顔を上げた彼女の表情は、驚きに満ちていた。
沖田は他人のことをあれこれと言える自分自身に少し驚いたのと気恥ずかしくなったのとで、なるべく前を向かないように意識した。
う、とうめき声をあげた名前の肩に布団をかけなおして、千鶴はゆるく微笑う。
「…ありがとうございます、沖田さん」
誰もが好き好んで剣を振るっているわけじゃない。胸の奥の奥に抱えた痛みを、そっと包んで一緒に背負ってあげられれば。
そうすれば、きっと君の痛みを半分にしてあげられるのかな。
千鶴はごめんなさい、と呟いてから、祈るように目を閉じた。傷つくことも、傷つけられることも。
それをなしに生きてゆくことなんてできるはずもないのなら。
後悔をしたその後に、たくさんの優しさと愛おしさを贈ろう。その手を、握ってあげることしか出来ないのならば。
「わりい、綺麗な手拭五、六枚くらいしかなかったんだけど…」
そっと静かに現れた藤堂は、右脇に挟んだ桶を千鶴の横に運び、左手に握り締めた手拭を渡した。彼女はありがとうと伝えてから、一枚を桶の中に突っ込んだ。ぴしゃんと水が跳ね返り、無音の空間に反響する。蒸し暑い室内で、それだけが涼しさをもたらした。
「…う、…ぁ……?」
小さな呻き声と共に、固く閉ざされていた瞼が開いた。
青白い肌が、乾いた唇が、焦点の定まらない瞳が。
"彼"は死んでいるのだと思わせた。
千鶴は固く絞った手拭を縁にかけて、上体を乗り出す。夢と現実の狭間を彷徨う瞳が、漸く千鶴を見つけた。
名前は伸ばしかけた手を、不意に下ろす。
――その手は、自分のものか他人のものかそれすらも分からない赤いそれで染められていた。
彼女はそれに気が付いて、ゆっくりとその手を握る。一瞬嫌がるように指先を動かしたが、千鶴が強く握り締めるから。僅かに瞼が開き、その口元が歪むのが見えた。
「…名前君、ごめんね。私――」
「……ちづ、る」
ありがとう。
かすれるような声で殆ど聞き取れなかったが、薄く開いた唇がそう紡いでいた。握り締めた手が僅かに震えて、小さく力を込める。
冷たいのは、どちらの手だっただろうか。
ふ、と下ろされた瞼に、手のひらの力がなくなる。千鶴は着物の袖で目元を拭って、小声で囁いた。
「…早く、いつもみたいに…笑って、ね」
祈るような切な声は、闇に沈んで溶け込んだ。
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