来はいつも

壊れ始めた灰青色のこころ 1 / 3


遠い遠い、いつの日か。
あの青い空が、今よりずっと遠いところにあった頃。その日は、昨日までの強い雨が嘘のように、見上げればどこまでも真っ青な空と肌に吸い付くような蒸し暑さを帯びていた。



市営のグラウンドに、彼女と同い年の少年が五、六人の固まりになってサッカーをしていた。一つのボールを必死に追いかけて、笑い声は絶え間なく反響する。
その輝きに追いやられたように、木々がつくる影が落ちた階段に少女は座っていた。グラウンドの端に存在するその長い階段の向こうには、管理もされずに放置されている神社がひっそりと佇んでいるらしい。鬱蒼と生い茂る木々の合間から流れる風は、彼女の火照った頬を冷ましていった。

いつものように、遠巻きに眩しい輝きを見つめていた。今日はたまたまそんな少女の足元にボールが転がってきて。


「あっ名前、ボール! 蹴って!」


少年がこちらに手を振り、無邪気に笑った。名前と呼ばれた彼女は一瞬躊躇い、それから残り二段の階段を飛び降りて、勢いよくボールを蹴り飛ばす。しかし本人の意思に反して、それは緩い回転のまま半分の距離を残して静止した。


「あ、」
「いいよ、名前」


近くに居たもう一人の少年が走って拾い上げると、そのまま背を向けて蹴り始めた。名前は小さく俯いて、また階段に腰を下ろす。日差し避けに被っていた野球帽を、赤くなる目元を隠すように深くさげた。


好きで独り輪に入れずにいるわけではない。昔からこの身体は脆くて、痛いほどの日差しの下で走り回るなんてできなかった。心臓を鷲掴みにされたような、息苦しい痛みが襲うから。
――いろいろな病院に連れ回されても原因不明だといわれ、一生付き合っていくものなのかと諦めていた。


「…眩しい」


走り回る小さな背中が羨ましくて、目を瞑った。重なる葉の隙間から漏れる光の筋に、瞼の裏が赤に染められる。
ざぁああ、と風が強く吹いた後、五月蝿い蝉が合唱をし始めた。


「ねえ」


夏の音に混じって、高い声が聞こえた。それが彼女に話しかけられたものではないと思うには、あまりに声が近すぎて。
名前は目を開けるのが――怖くて、ぎゅと両瞼に力を入れた。


ぎゅむ。


返事をしなかったのに怒ったのか、いきなり頬をつねられる。驚いてぱっと目を開けたその先には、茶色髪の男の子が立っていた。
彼は菜の花のような黄色の、猫みたいな目をしていた。


「っな、何!?」
「ねえ、なんで一緒にあそばないの? あそぼ!」


少年は名前の右手を握り引っ張って立たせると、グラウンドのほうを指差す。サッカーボールが、高く蹴り上げられていた。
彼女はその手を振り払い、数段駆け上がると振り返って声を荒げた。


「おれは! あんたなんかとあそばねえの!」


一気に駆け上がって息の上がった名前は、初めて神社の鳥居をくぐった。赤く、所々塗装の剥がれた鳥居は、木漏れ日に当てられ輝いていた。――とてもとても、古くてぼろぼろなのに。
名前は唇を横に引き、境内に足を踏み入れた。
あれだけ階段が長いのだから、きっと大きな神社があるのだろうと思っていた。それはあまりに小さくて廃れてしまっていて、彼女はなんだと呟く。正面の賽銭箱は朽ち果てて、所々ほつれている鈴緒の色も分からないほどだった。
今にも崩れてしまいそうな三段の階段を手で押してから、ゆっくりと腰を下ろす。 ギシと板は軋みをあげるけれど、壊れる心配はなさそうだ。
名前は野球帽をはずして伸びをする。汗ばんだ額を緩やかな風が撫でていき、うとうとと瞼が落ちそうになる。
頭の中で、自分がここに来た理由なんてものは綺麗に忘れ去っていた。


「ここは眩しくないね」


気付けば鳥居の下に少年はいて、どこから連れてきたのか黒色の猫を抱いている。にゃあとひとつ啼くと、ふわりと少年の腕の中から飛び出していった。


「…向こういってろよ」
「ええー。僕はきみとあそびたいんだけどなあ」
「おれはイヤ」


名前は目を瞑って、揃えた膝頭の上に額を押し付ける。少年の不満げな声が聞こえたけれど、押し黙り続けた。暫くすると隣で階段の軋む音がして、下手な鼻歌が聞こえてきた。
懐かしい音階が耳の奥になじんで落ちる。それはずっと前に、聴いたことがあるような気がした。


「〜♪」


なんだっけ、と頭の中の引き出しを漁ってみても、思い当たる曲名がでてこない。その音を追いかけて探していれば、不意に少年は歌うのを止めてしまった。


「僕はね、あきらって言うんだ。光って書いて、あきら」


そう言って声をあげて笑った少年、光はちりんと鈴の音を呼び寄せた。うっすらと開いた視線をあげて、目元を押し当てた所為でぼやける視野で光を見る。彼は猫じゃらしを手に黒い猫と戯れていた。


「この子はたまっていうんだって。近所のおばさんが呼んでた」


たま、と光が嬉しそうに呟けば、猫はにゃあと答えた。まるで会話でもしているような間の取り方に、名前は目を細める。
――ふらふらと当てもなく、それでも歩き回る猫が好きだった。


「たま、なんてよくある名前じゃん。まだクロのほうが似合ってるのに」
「じゃあ僕らはクロって呼んであげればいいよ。でもクロも犬っぽくない?」
「ぽち、たま、よりましだと思うんだけど」


「そうかなあ、ねえクロ?」と話しかける光に猫はまたにゃあと啼いて、首の鈴をちりんと鳴らした。


「猫も名前があるから呼べるんだよ。だから、君の名前を教えて?」


猫の前足を広げて招き猫みたいに右手を振る。名前はそっと猫の鼻面を撫でて、笑った。


「クロもたまもいっぱい名前があって大変だな、猫も」
「大丈夫だよ、声で分かってくれるから」
「それじゃあ名前いらないじゃん」
「名前はいるよ。そうじゃないとここにいれないもん」


ね、と猫に同意を求めた後放した両手で、今度は地面の草をぶちぶちと抜き始めた。手近な小枝を握って、地面に歪な文字で光と書く。そうして出来上がった存在に、丸をつけて囲んでみせた。
頭上で小鳥が何かを囁いていた。


「君の名前は? ぽち、たま、クロにシロ? みかん、いちご、ぶどうとすいか?」
「……名前」
「? ちとせあめ?」
「名前! 食べ物じゃない!」


なにが面白かったのか大笑いして腹を抱える少年に、名前は膨れっ面する。ごめんねと笑いながら謝る光はすくっと立ち上がって、猫を抱きかかえた。茶色の髪が陽光に反射して、頬のえくぼに濃い影を落とす。黒猫は眠たげにあくびを漏らし、しっぽを一振りした。


「名前は走っても大丈夫だよ、サッカーも出来るし野球だってできる。缶蹴りとか、あ! ポコペンとか! だから、一緒に遊ぼうよ」


無理だよと言ってしまうことは簡単なのに、声が出てこなかった。今までそうして過ごしてきた日々が、今なら何か変われるような気もした。

太陽が笑ってて、空が青くて、風がそよいで、少年が手を差し伸べる。
赤いスニーカーが砂利を踏みしめた。
それは蝉の声が響く七月末の、ゆらゆらとたゆたう陽炎のようなある日。黒い猫が眩しそうに眼を細めてしまうような、太陽みたいな少年に出逢った。
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