来はいつも

狂気は紅緋色を引き連れて 2 / 3


本当は彼自身、分かっていたのだ。
そこにあったものが完全なる殺意を孕む脅威ではなく、安穏として穏やかなものであることを。でも、それを確定付ける何かが足りなくて。
新選組副長という立場であるが為に課せられたそれに、応える義務があった。 ただなんとなく過ごすことができるのならば、それ以上に苦痛を伴うものなどなかっただろう。

目の前で、壊れてしまいそうなか細い糸を、きっと一度はこの手で断ってしまうことも。

目を逸らしてばかりの名前を、目を閉じることで消し去った。土方は一人拳を握り締め、眉間に深い皺を刻む。
そんな様子を、彼が見ていることなど知らないで。


「今回の長州の襲撃、お前が手を引いたんじゃねえのか」


それは答えの在る問いなんかではない。頷くことしか許されない確定事項。
彼女はそこで初めて、不快感に目を細めた。


「…俺は一番に自分を守りたい。だったら、どうしてわざわざ自分の立ち位置を悪くさせなくちゃいけないんですか」
「それが、優先事項だからだろ」
「ならあの冬の日に、疾うにあんたの首掻っ切って殺してる」


藤堂は彼女の自然と早口になった口調が、物珍しくてつい目を瞠った。ここまで余裕がない名前を見るのは初めてで、そこまで追い詰める土方にも懐疑を抱いた。
それが本当に正しいのか。決定的な"何か"が、本当に必要なのか。
立場と考え方の違いは、この場を余計平行線上に追いやっていた。


キィン。


熱い生き血の通う晒した首筋に、固く冷たい刃が食い込む。音も気配もなく背後に現れたそれに、土方と斎藤以外は皆驚いていた。


「…少し、手間取りまして。遅れて申し訳ありません」


その場違いなほど穏やかな声音が、ぞわりと背筋を逆撫でする。
名前は身を捩って、刀の先を見上げた。


「…陽月、さん」


声をあげたのは、千鶴だった。
彼女が名前と陽月を見つめ僅かに動こうとしたのを、沖田が睨むことによって制止させた。土方が盛大に鳴らした舌打ちに、山南はにこりと微笑む。


「…大変そうだね」


粘着質な声に対する返答はなく、代わりに底冷えのする瞳が彼を貫いた。彼は頭に黒の布を巻きつけ、さながら監察方のような出で立ちをしている。陽月ははあと肩を落として、柄に力を込めた。

誰かが零した殺してしまえという呪詛は、一体誰に向けられたものなのか。


「耳を削ぎ、鼻を落とし指を斬る。いくらともやりようがあったはずですよ、土方君」


冷や汗が、名前の頬を這う。その言葉に一番に顔を歪めたのは、やはり永倉だった。
土方は暫く山南と無言の睨みあいを交わし、瞬きを二回する。頭上で繰り広げられる言葉のない会話に、名前はぽつりと零した。


「…土方さん、もういいですよ」


軋みをあげた。解れる音がした。千切れる、音がした。
存在や意味を、言葉で言い表すことが出来ないからこそ。否定された瞬間に脆く、崩れ去っていってしまうから。


「敵かどうか分からない奴を置いておくのも煩わしいでしょうし」


誰かの息を呑む声が、聞こえた。
彼女がこんなことを言い出すのさえ予想していたように、土方は表情を曇らせる。


「……殺すのなら、抵抗はしない」


その代わり、さっくり死なせてください。
笑っていられる余裕なんて、疾うになくなっている。それでも張り付いた仮面は根気強く粘っていて、もう剥がし方も忘れてしまった。
肺呼吸の仕方も分からない、羊水に浸かる未熟児以下の脳内で。
ストンと心が抜け落ちて、何も考えられない。
それでも足掻くように心臓は脈打ち、脳は酸素を欲しがった。
沖田の表情が一瞬歪み、口角が下がる。十分、だった。


「…殺される前に、何か残すこともないの?」
「おい、総司」


彼が隣に置いた刀に手を触れ、じとりと名前を見つめる。土方は舌打ち混じりに沖田を睨むが、彼はさらりと受け流して答えだけを待った。彼女は微かに目を瞠る素振りをした後、少し考え、


「…池田屋やあの日、に…俺は、逃げたくなかった。逃げなかったんでもなくて、逃げれなかったわけでもなくて。――逃げたく、なかったから」
「…っなあ、土方さん。こいつが間者だっていうなら、あの時長州藩士を殺さなくても良かったんじゃないのか? でも名前は実際何人も斬ってたし……」
「敵を騙すならばまず味方から。私には、彼女が上手く新選組に入るためならば、味方も何も関係なく斬り殺す人に見えますが」


山南は藤堂の提言をばっさりと切り捨て、名前に向かって優しく微笑む。彼女は陽月を一瞥してから、声を絞り出すように発した。


「…そうやって自分のこと棚に上げないで下さい」
「何のことですか?」
「そんな顔ぶら提げて、二度と俺の名を呼ぶな。裏切ったのかなんなのか知らないけど、烝君の偽者利用してるのは、どっち?」


そして胸がざわめく殺気が漂い、


ダンッ。


名前は身体を転がせて、それを回避した。彼女が元々座っていた場所には白刃が突き立てられていた。


「ばれちゃったや」
「まあ、もとより貴方に期待などしていませんから」


にこやかな笑みを湛える彼は一歩間を取り、"陽月"は不機嫌そうに鼻で笑う。刀を引き抜いて切っ先が名前に向けられたとき、幹部方全員が抜刀体制に入っていた。炎の灯火で揺らめく刀身に、名前の笑顔が反射する。


「俺はあんたさえ殺れればそれでいいんだ」


どうなってんの、と誰かの小声で呟かれた声に答えはなく、向けられた殺意の先で、彼女は顔を上げる。にやりと嗤った口元は、確かな怒気を孕んでいた。


「変装しか、能がないくせに」


刹那空を裂く音とともに、びちゃっと血のはねる音がした。名前の頬にできた赤い筋から、ぷくりと溢れ出しては顎を伝って床に零れる。はらりと髪が一房、滴る赤の上に落ちた。
陽月の顔をした男は頭の布を剥ぎ取って、闇に溶ける黒髪をさらけ出した。


「それも立派な戦術だろ? ねえ、山南さん」


山南は左腕を握りしめたまま、無言を貫く。 後ろ手に縛られたままの名前は、ゆっくりと立ち上がると自身の首を晒した。まるで薄ら嗤うその唇は、殺してみろとでも言っているようで。
土方が僅かに膝を浮かせた瞬間、男は一気に間合いを詰めた。

踏み鳴らされた床の軋みに衣擦れの音が響く。甲高い呼び声が反響する。


「死ね!」


彼女は振り下ろされた刃を紙一重で避けると、着流しの裾の合間から覗く白い足が、男の肋骨を蹴り上げた。衝撃で肺から空気が吐き出され痙攣した臓器に彼は呻き、刀を取りこぼして彼女の横で片膝を突く。名前は下唇を赤い舌で一舐めすると、崩れた男の後頭部に回し蹴りを食らわせた。力の入らない彼はそのまま障子を突き破ると縁側に飛び出し、庭に転げ落ちる。脳が揺れたせいかうぇとえずく彼を見下ろす名前は、いつの間にか固い縄の拘束から抜け出していた。
無理やり抜けたのだろう、その手首は赤く腫れあがり幾つものすり傷を残している。ぼたぼたと滴り落ちる血液は、内側の血管を傷つけたのか夥しい量だった。


「ほら、殺してみせてよ」


息の詰まる殺気が、全員から呼吸を奪いとる。彼女が男の刀を拾い上げたとき、血の海の中から影が消えた。


「…っ名前君!!」
「お、い千鶴!」
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