来はいつも

狂気は紅緋色を引き連れて 3 / 3


怖くない。
そういってしまえば嘘になるけれど。
脳裏に血塗れの部屋が蘇る。名前の手が、頬が、血に塗れているのに。
名前はいつだって、そうやって笑っていた。


「……っ名前君!」


消えた影を追うように、身を乗り出して彼女の名を呼ぶ。伸ばした手は、届くと信じていた。


「お、い千鶴!」


乗り出した千鶴の肩を、藤堂が強く掴む。伸ばした右手は空を掴み、手のひらを握り締めてキッと彼を睨んだ。
――彼が悪いわけじゃないと、知っているのに。
彼は一瞬目を瞠り、それから立ち上がる土方たちを一瞥してから歪に笑った。


「…大丈夫だって、今はもう、土方さんにそんな気ねえから」
「…うん、ごめんなさい……」


縁側に飛び出した名前が刀を振り上げる。それを沖田が刀を抜いて防ぎ、彼女の刀を薙ぎ払った。


「そ、うじ……!!」


丸腰になった名前は、鋭く沖田さんを睨むけれど。沖田は彼女の血の溢れる右手を握り、心臓より高い位置にあげた。死にたいの、と微かに聞こえた言葉に、千鶴は漸く少しだけほっとして。視線をずらせば、地面にうずくまる陽月――ではないみたいだった――に、土方は刃を向けていた。
隣で藤堂と原田が立ち上がり、話し込む。


「…あいつはあん時の山崎君の偽者ってことか。にしたってどうやって今度は…」
「ああ。…なあ、山南さん」


呼びかけられてこちらを向く山南は、眼鏡の奥の瞳を歪ませた。――原田はというと、いつものように腰に手を当てているから、山南と戦うつもりはないみたい。


「事情は後で説明します。彼も、もう暫くで亡くなりますよ」
「…どういうことだ――」


原田が怪訝な顔つきで彼を睨んだ刹那。縁側のほうで、獣の呻きにも似た叫び声が響いた。


「っぐ、うあ゛あ゛あぁあ!!」


その声に驚いて外を見遣れば、永倉と斉藤の姿はなく、代わりにいたのは――。


「陽月、さん…!」


月光にきらめく金色の髪をした、正真正銘の陽月だった。彼は苦しみに喘ぐ元陽月だった間者に目もくれず、まっすぐに名前の許へ歩み寄る。そして何かを告げた後、名前は酷く動揺したようだった。
「……俺、は…ッ!」と、胸を鷲掴みされるような切ない叫びをあげて、俯く。
今まで見たこともないような不安げな表情に、駆け寄りたいのをぐっと堪えた。


「…山南さん、あんた毒でも盛ったのか?」
「ええ、彼には粗方事情を聞きましたので」


原田の問いかけににこりと笑顔で答えた山南は、縁側のほうへ足を運ぶ。土方は彼を拘束していた手を離し、山南を睨んだ。声にならない呻き声をあげながら、彼は苦し紛れに自身の首に幾筋もの赤い線を描き、思わず目を背ける。


「さ…な、ん…! て、めえ…っ!!」
「あなたの役目は、もう終えましたから。逃げたければどうぞ、ご勝手になさってください」


冷酷な其の微笑は、苦しみながらもがく彼に更なる絶望を与えた。それを分かっている上で、彼はそんなことを吐き捨てるのだ。
千鶴は過ぎる恐怖に身震いし、名前を見る。
――震える彼女の表情を見ているだけで、胸は張り裂けるように痛いのはどうしてだろう。
悲しそうで寂しそうで、苦しそうで。愉しそうな。
色んな感情が混じって複雑に歪んだ名前の顔を、私は苦しくて見ていることが出来なかった。

広間に吹き渡る風は生温くて、厭な汗を背中に掻く。 まだ聞こえる荒々しい声が、夜の闇に吸い込まれていく。
月光に翻る土方の刀は、こびりつく赤をより鮮明に浮かび上がらせた。
幾人の血を吸ったその刃は、まるで次の獲物に歓喜する様に震えた。
陽月は土方の腕を掴み制止をかけしゃがみこむと、自分とは異なる黒い髪を鷲掴みにして持ち上げる。彼が纏う空気は冷たくて、例えるなら刃を向けられたかのような、そんな錯覚さえ起させた。彼は憎憎しげに見上げ激しく咳き込んだかと思うと、その口から真っ赤な鮮血を吐き出す。
赤々としたその血は、びちゃっと陽月の頬と地面に広がった。


「俺に全然似てないと思うんだけどなあ」


そんな下らないことを呟いて、彼はゆっくりと刀を抜いた。


「待て、直死ぬ」
「ええー、それじゃあ俺のこの思いはどこにぶつければ――」


場違いのような明るさで物騒なことばかりを吐く陽月は、ちらりと沖田のほうを見遣り、へらと笑う。土方はその視線に気付き、再び深く眉間にしわを寄せた。沖田は表情一つ変えず、名前の腕を掴みながらその場を離れていく。
千鶴は半分腰を浮かせてから、窺うようにそろりと藤堂を見つめた。


「…へいすけ、くん」
「――ああ、分かってるさ。追いかけ、たいんだろ?」


迷っているわけではない。
ただ、どうしても怖かった。
それでも逃げないと、決めたばかりなのに。
うんと頷いて、立ち上がる。原田は私達を見て淡く笑んで、行ってこいと背中を押してくれた。
名前は、本当は。


「…はい」


誰よりも、寂しがり屋で強がりなだけなんだって。
千鶴は名前君と沖田が行った方を見つめて、両手を握り締めた。自分に何が出来るのかなんて分からないけど、でも。自分の我儘で。だから、それでも。
言葉は届かなくても、この声が届くのなら。
喉が嗄れたって良い。

千鶴と藤堂が、名前を追いかけていたとき。背後で短い悲鳴と、鈍い音が聞こえた。


狂気は紅緋色を引き連れて

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