来はいつも

落ちた熨斗目花色の悲鳴 1 / 3


頭に血が上る、というより、もっと意識の奥深くに沈む感覚を持っていかれるような、そんな感じがした。
気付けば両手は自由で、気付けば日月の偽者は庭に転げ落ちていて。
今、多分この身体は俺のものであって、俺のものではない。
痛覚さえも根こそぎ無くなってしまったのか、ぼたぼたと鮮血の流れる傷口は痛くも痒くもなかった。代わりにずきと痛むのは心臓と、金槌で殴られるような酷い頭痛で。
いつの間に拾ったのか黒ずんだ刀を、俺は倒れ伏す彼に向かって振り上げる。


「……名前君!」


――あれ、その名前は誰のものだったっけ。


ッキィン!


耳元で響く鋼が打ち合う音に、はっとした。眼前に広がる赤い着物が、頭の中で何かと被る。見上げれば、そこには表情を歪ませる沖田の姿があった。
鍔を押され弾かれた刀身は、俺の後方に虚しく飛ばされる。


「そ、うじ……!」


防げるものがなくなった俺は沖田を睨みつけ、後ずさる。
――俺は俺の手で、彼を殺さなければならないのだから。
誰に言われたのかも何故そう思うのかも分からない使命感じみたそれは、ふつふつと頭のなかで浮かんでは真っ赤な花を撒き散らす。俺は草の茂みに隠れた刀に目を遣ると、不意に強く手首を捕まれた。彼の大きな右手は、溢れ出す血で真っ赤に染まっていく。


「名前」


誰を、呼んでいるか分からない。
彼が俺に向かって呼ぶのだからそれは紛れもなく俺自身の名前なのだろう。それでも、違和感ばかりが脳内をひしめきあうのだ。例えば俺が何かの役を演じていたとして、その役名を呼ばれているような。それは確かに自身のものだけれど、決して己のものにはなり得ない。――なら、この身体の名前は?


「君、死にたいの」


ただの死にたがりだと、吐き捨てられた言葉が脳裏を過ぎった。
名も分からない。意味も分からない。それなのに。
胸の深くからこみ上げてきた言葉が、渇く喉を通って震える唇から零れた。


「…死に、たくない…」


嗤い声が聞こえる。
名前、と深遠に引きずりこむ呼び声が。
聞こえた気がした。
もうこの左手はなくなってしまったんじゃないかと思うほどの激痛が、刹那全身を駆け巡る。ぼんやりと見えていた景色が、はっきりとした境界線を伴って映し出された。


「名前……?」


喉を震わせ零れた声は、口のなかで溶けて消えた。


「斎藤、巡察に行く前に山崎君と島田君を呼んできてくれ。それと、永倉は屯所内を見回った後、二番組を引き連れて三番組と合流しろ。
いつもより気を引き締めて向かえ」
「御意」
「おうよ。――前川邸のほうはいいのか?」
「構わねえ」


土方は二人に指示を出すと、鞘から刀身を引き抜いて男の首に宛がった。顎に血の跡を残しながらうつ伏せる彼は、ゆっくりと頭を持ち上げる。
その双眸は酷く揺らいでいた。


「お前、それの本物のほうはどうした」
「それ、は……ッぐ、うあ゛あ゛あぁあ!!」


彼の苦痛に叫ぶ絶叫が、俺の鼓膜を突き破る。指先がかたかたと震え、奥歯が噛みあわずに音を立てた。直接圧迫されることで血管が収縮し、徐々に流血の量も減っていく。
沖田の右手が赤く染まっていくのを、ただぼうっと眺めていた。
砂利を踏む足音が増える。月光の影から現れた第三者は、鋭い犬歯をのぞかせ笑った。


「本物なら、ここにいますよ土方さん」
「…手前、今までどこに――」


彼は進める足を止めないで土方の横を通り過ぎ、倒れる間者に目もくれず、沖田と俺の前で立ち止まる。にやりと笑った彼は腕を伸ばし、俺の首に触れた。
――氷水にでも浸からせていたのかと思うほど、恐ろしく冷たい手をしていた。


「化物にされた春の血が、お前にも流れているんだよ」


幼い子供に問いかけるような、優しい口調で陽月は言う。
俺の目線に合うように少し傾げた首には、ミミズの這ったような傷痕を残していた。


「お、れは…」


――在るはずのない桜の花びらが舞う、そんな幻をそこに見た。この身体が俺自身のものでないというのなら。この意識さえ、想いさえ、俺のものではないというのなら。
ここにいるのは一体、なんなのだ。


「……俺、は…ッ!」


分からない。なにも、分からないのに。それなのに陽月は、答えのない問いばかりをばら撒いていく。今にも張り裂けてしまいそうだと、この胸は悲鳴を上げて。襟元を握り締めたところで、息苦しさも気持ち悪さも何一つ拭えやしなかった。
彼は腕を下ろし、くるりと踵を返して土方の正面に立つ。睨みあげる彼の視線を笑顔でかわす陽月は、首筋の傷口を這うように指でなぞった。


「さ…な、ん…! て、めえ…っ!!」
「あなたの役目は、もう終えましたから。逃げたければどうぞ、ご勝手になさってください」


恐らくもう立つことさえ出来ないであろう彼に、部屋の奥から現れた山南は冷酷な微笑をたたえてそう告げた。彼の額には脂汗が浮かび、地面の土と汗とが混じってまみれている。息も絶え絶えのその唇は乾ききり、苦し紛れにかきむしった首筋は赤く筋上に腫れ上がっていた。
陽月は彼の目の前でしゃがみ、髪を鷲掴み持ち上げる。そこで漸く陽月の存在に気付いた彼は、驚きに目を見開かせた。


「…な、んで…っ」
「残念。ごめんね、しぶとくて」


首の傷痕を指差して、目を細める。彼は憎憎しげに顔を歪ませると激しく咳き込み、その口から真っ赤な鮮血を吐き出した。
赤々としたその血は、びちゃっと陽月の頬と地面に広がる。


「俺に全然似てないと思うんだけどなあ」


彼は頬の血を拭い、刀を引き抜いて地面に突き刺した。それに土方が眉を寄せると、彼は唇を尖らせ「ええー」と不満を零す。ちらりとこちらを見遣った陽月の視線に、沖田が俺を横目見た。


「名前」


彼の呼び声に、彷徨わせた瞳をゆっくりと持ち上げる。見上げた視界に、鮮やかな色はなかった。
俺は沖田に引っ張られ、屋敷の奥へと歩き始める。
自分の血によって湿った大地は、赤黒く変色していた。
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