未来はいつも
もうすっかり流血は収まり、あとは意識を緩慢にさせる痛みだけが残っていた。
沖田の手を染める血液は凝固し、肌色を埋め尽くしている。
静かな廊下を二人でゆっくりと歩いていると、不意に彼は歩みを止めた。明り取りから零れる月光が足元を照らし、切り取られた光から逃れるように俺は影に隠れる。
彼は振り向きざまに手を放し、血染めのその手の平を握り締めた。
「名前」
俺はただ俯いたまま、足の指先に付いた土を見ていた。
「嘘が下手だね、君は」
彼は頭上で呆れたような声を零した。瞬間悲しいような苦しいような切ないような、よく分からないごちゃごちゃとしてどす黒いもやが胸の奥で広がったのを感じた。どうにもならないと知ってはいながら、この吐き出したい何かをどうにかしたくて。
俺は眉尻を下げて、両手を強く握り締める。
深く深く俯いて、喉を殺して叫んだ。
「…俺にだって、分かんないんだよっ……いきなり知らない人の話させられて、見ず知らずの人間が俺の中にいて、人殺したって何にも感じなくて! 願ったのは自分だって分かってる、そうなることを、そうであることを選んだのは自分自身だって…、なのに……っ!」
瞼を閉じれば、血の海が広がっていた。白い雪の降るあの晩に、心臓を貫いた感触が。
静かに積もり、深くなっていく。
「…ただ、あの場所から――すぐにでも、逃げ、出したくて。だから、ここに来たけど、でも――俺は、」
どうしようもないくらい馬鹿で、考えなしの行動だったと思う。そんなことをしたからといって、自分の思い描いた世界になるはずもないことなんて理解していたはずなのに。
沖田が名前と呟いた。俺は俯いた顔もあげられず、ひたすら下唇を噛み締めて押し黙る。
――ギシと背後で、床の軋む音が響いた。
「…名前君」
この抱える思いのうち一つも伝わらないのに、本当は笑っていられる余裕なんてあるはずもなく。言葉の苦さを感じながら過ごしていくうち、少しずつ生まれる気持ちから目を逸らすこともできないで。俺は今一番、きっと多分、会いたくなかったんだと思う。
「――…ち、づる」
醜かった。羨望の眼差し以上、ただの憧れと嫉み以下。 さっきとは比べものにならないほどのもやの濃さと質量を伴って、それはやってきた。
廊下の角に隠れていた華奢な身体が飛び出してきて、俺の身体に小さな衝撃が走ふ。ふわりと鼻を掠める香りに、酔いそうになった。もう暫く、血の臭いくらいしか嗅いでいなかったような気もした。
「…名前、君……っ!」
呼ばないで。その声に呼ばれるたびに、尚更胸が苦しくなるから。
俺は首に回された彼女の腕から逃れようと身じろぎするも、そのたびにきつく抱きしめられるので何もできなかった。千鶴の黒髪が頬に落ち、赤く色づく。
「っ大丈夫だから…名前君……っ」
「…もう、いい、大丈夫ーー」
「何もよくなんてないよ! 私だって、ちゃんと知ってたよ…! 名前君は気まぐれで助けたって言ってましたけれど、私だって…! ただの気まぐれで助けて下さったわけじゃないって…っ。名前君の中に、皆さんと同じ思いがあって信念があって…!」
頭の中では、誰よりもきっと分かっていたんだと思う。言葉にしようと思えば思うほど、余計な飾りでごてごてになってしまうから。そのせいで詰まる声を呑み込んで。そんなものは嘘だと割り切って、こんな想いは気のせいだと蓋をして。
「だから、そんなふうに――苦しそうに、笑わないで……!」
俺の言葉を遮って叫んだ想いは、泣いて縋るように強く俺の着流しを握り締めた。
心臓が、痛んだ。
苦しいからじゃなくて、悲しいからじゃなくて。
もっと丸くて温かいものの所為で。
目頭が熱くなって、俺は右手で目を隠して千鶴の肩に額を押し当てた。
「ち、がう。違うよ、そんなに綺麗じゃない…っ! 俺は、格好いいヒーローとか、そんなの全然なれないし! 誰かを、助けたかったし守りたかったし役に立ちたかった、けど――!!」
そんなの、なれないんだよ。
やっとしぼりだして声になる言葉が、夜に呑みこまれる。体内で燻っていた言葉の種が、出口を探してもがいていた。
ふっと、目尻から意思に反してそれは零れ落ちる。俺は彼女の肩を強く押しのけて、壁に背をもたれた。俯く視界に、自分の零れる涙ばかりが映っていた。
「…ならどうして、この間私を助けてくれたの?」
「……どうしてって」
涙声になるのを知られたくなくて、言葉を短く切る。誰かが呟いた名前が、耳元で弾けた。
「…千鶴、しんじゃったら、わかんなくなる、から」
物語の真ん中にいるのはいつだって彼女であって、千鶴が居なくなってしまうことで消えていく未来が怖くて。
――違う。本当は、そんな理由なんかじゃない。
俺は頭を僅かに横に振り、袖で目元を何度も擦った。
「……千鶴が、好き、だから」
誰かを大切に思う心も、そのために守らなきゃと動く手足も。それだけは、この心臓の奥に確かにある俺の心なのだと。洟を啜って見上げた先に、藤堂も立っていた。
彼は顔を歪めて、
「泣き虫」
そう言ってまた笑った。俺は、ぐしゃぐしゃになった顔で千鶴を見た。彼女は同じようにぐしゃぐしゃな泣き顔で、俺の両手を握り締める。
――それはとても温かくて、温かくて。
「…っわたしだって名前君のこと好きなのに、どうして――。どうでもよくなんかない、みんな自分のために生きてるのに」
生きてよ。
そう何度も呟かれた声が、俺の意識を揺さぶった。
はらりと落ちてくる記憶の一枚が、とても切なくて。胸に残る罪悪感が、俺の足を絡めとって縛り付ける。過去から一歩も動けず、立ち止まっては振り返り、どうにもならない苦さを噛み締めて俯いていた。
見開いた両目から、ほろりと零れた。
「…生きて、いいの…?」
だって君を殺してしまったのは、自分であるというのに。
それでも、
「誰の所為じゃない。君は君のために」
明日が待ち遠しいくらい、焦がれてやまないほどに。死にたくないと願って、祈って、笑って。
そうやって、生きることを。
「…そう、じ」
俺の所為だと告げた沖田に似た友の影を、追いかけて。
彼の言葉は、剥き出しの刃のように鋭くて。
痛くて、苦しいけれど。
千鶴の両手と同じくらい、温かかった。
「言ったよね、誰かを斬るから誰かに斬られる。それだけの覚悟じゃないって」
今までの人たちと、これから先傷つけてしまう人たちの重荷を、背負っていけるのだろうか。其の答えを出せてしまうほど、まだみんなのようには出来ないから。
「…うん」
目を合わせれば、千鶴が笑っていた。
「…生きる、から」
ちゃんと、生きるから。この場所で。
高く昇った月が、俺の影を黒く落とした。
戻 | 目次 表題 | 進