来はいつも

揺らぐ青白橡色の声 1 / 4


誰のせいでもなく、自分のために。
ただそう言ってくれた声は、今は遠くて聞こえない。
君がいなくなってから、どれだけの季節が巡ったんだろう。そんなものもわからなくなるほど、ずっと昔のことだったのか、はたまた最近のことだったのか。君のいない空虚感は、周りの時間さえも連れ去ってしまうのだ。
あの日、あの時、あの瞬間。俺が、呼ばなければ。
どれだけの月日が経とうと、今でも鮮明に脳裏に焼き付く血飛沫を、かき消すことができるのなら。そんな方法があるのなら、きっと俺は願ってしまうのだろう。どれだけ口で強がったところで、本当は誰よりも臆病で泣き虫なのだから。
青色が淀む、足元で。触れたくて伸ばして、触れられずに落ちたこの赤黒い手を。
夢の向こう側で、誰かが握り締めた。


「…名前」


笑顔がぼやける。
ぼんやりとあけた視界の先で、不似合いな木造の天井が見えた。
――いや、とうの昔に、俺が殺してしまったんだっけ。


「…、そう、じ」
「おはよう」


にこりと微笑む笑顔が、ぐにゃりと歪む。
あまりに似すぎて、遠すぎて。
俺は固く目を瞑ってから、ゆっくりと起き上がった。おそらく障子から漏れているだろう光が、瞼の裏を赤く染めた。


「…ん、おはよ…」


目を開ければ、一緒にいぐさの匂いが広がった。
――こんなにも、現実を拒むことは簡単にできてしまうのに。
沖田は大きなあくびを噛み、外を見やる。その視線の先には、既に真上に昇りかける太陽の姿があった。


「…俺、何日寝て…?」


左手首に幾重にも巻かれた薄汚れた包帯を眺めながら、俺はやんわり拳を握る。さすがに鋭い痛みが左手全体に走るけれど、どうやら刀を握ることはできそうだ。
彼は俺をじっと見つめたあと、


「一週間だよ。医者によれば、出血多量と寝不足の所為だって」


思わず一週間と叫びそうになって呑み込んだ。どうりで腹は空くし体が気だるいわけだ。俺が自分に呆れてため息を吐けば、この心情を知ってか知らずか沖田はくつくつと笑い始めた。一週間も起きず風呂も入っていないことに気づけば、体がうずうずと不快感を訴え始める。
未だ隣で笑い続ける彼を横目に、俺は項を掻いて右目をこすった。


「っはあ、君がずっと目を覚まさないものだから、千鶴ちゃんが心配してたよ? このまま目を覚まさなかったらどうしようって」


おかしいよね、と彼はまた笑ってみせた。
もしも本当に、あのまま目を覚まさなければ。ただの塗り固められた願望だけの世界で、君は笑っていてくれるのだろうか。
あの日からぽっかりと空いてしまった隙間が、明確な自覚を伴って広がっていく。その隙間は確かな痛みと張り裂ける切なさを、俺に刻み付けていくのだ。


「…名前?」


呼ばれて初めて、頬を横切るそれに気づいた。ツ、と流れた一筋の涙が、顎を伝って布団に楕円の染みを作る。俺は急いで拭い去って、何度も何度も両目をこすりつけた。それでも堰を切ったように溢れて溢れて零れ出す涙が、ついには嗚咽とともに流れ出した。


「っぅ、く」


生きてもいいよと。
もう聞こえない声を。
ただひたすら祈って、願って。
けれど、きっと一番に望んでいたのはそんな言葉ではなく。


「…光の、所為?」


弾かれたように勢いよくあげた視線の先で、歪な表情を浮かべている彼がいた。俺は薄く開いた唇の隙間から、僅かに呼吸をしていた。喉の奥で、異物が詰まって息ができない。吐き出してしまいたいほど気持ちが悪いのに、それは粘っこく張り付いてしまっていて。
網膜の奥で、ちかちかと光を反射して頭痛を呼んだ。


「…責めて、くれたら、…っ」


呑み込めきれずにいた靄が、深く深く心臓の奥をえぐっていく。胸の奥深くで膝を抱えていた本当の心が、悲鳴を上げた。
俺は前髪をかきあげて、立てた両膝に顔をうずめた。濡れた布団が、僅かに熱を帯びていて。


「…恨んで、ただ、恨んでくれれば、それで――」


何も言わず、ただそこにある"過去"になるだけなら。
肩から流れる黒髪で、視界が黒く染まればいい。これ以上、何も見なくて済むのなら、それでいいのに。
押し殺した嗚咽。止めどなくあふれる涙。目を背けて蓋をした過去。
それら全てが、忘れるなと笑っていた。


「いつも、僕がくると泣いてばっかりだね」


呆れたように明るい声が、頭上で響く。沖田は俺の頭に手を置いて、緩く引き寄せた。僅かに額が肩に触れて、俺は目を見開いて。


「恨まれて責められて、ただ自分が楽になりたいだけでしょ。ちゃんと生きるって言ったのは紛れもない君なんだから、死にたくなるほど生きてなよ」


一瞬頭を抱える沖田の手に力が入って、心臓が一際大きく高鳴った。横に引いた唇がわなわなと震えて、涙で濡れた布団を強く握り締める。

もっと生きたかった。

そう誰の声ともわからない、低く高く澱み果てなく明朗としている声が、頭の隅で声を上げる。


「…おれ、……だっ、て」


生きたい、必死に、生きたい。
とくんと聞こえた心臓の音は、心地よい鼓動を刻んで動いている。触れた肩から伝わる温もりが優しくて、俺は目をつむった。
彼の音に合わせるように。
脳内に犇めく痛みが、じんわりと消え去っていく。するりと透明になっていく痛みは、それでもいまだにそこにいた。


「…名前」


ぽつりとこぼれた呼び声が、記憶の淵をそろりと撫でた。
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