来はいつも

交錯する山鳩色の願い 1 / 3


相変わらずこの座布団は座り心地が悪かった。使い古されたそれはもはや煎餅のように平たく固い。畳の固さを和らげるためのものであるというのに、元来の意味を果たしていないのだからまったくもって腰に悪い。とはいいつつも、腰など悪くしていた覚えもないのだが。
彼は小さく息を吐き、項を掻いた。彼を呼びつけた目の前の男は、文机に広がる書面を睨んでいた。
耳を劈くような蝉の声は穏やかになり、蜩の声を聞くようになった。変わらず日差しは焼け付く様に熱いが、それでも盆地独特の湿っぽさは収まりつつある。季節はもうすぐ、秋に移り変わろうとしていた。
先日の蛤御門の一件で朝敵とされた長州藩士たちの残党狩に大阪などを走り回っていたため、七月の下旬頃まで慌ただしい屯所内であったが、それもようやく落ち着きを取り戻し始めた頃だった。突然話があると彼を呼びとめたこの男、土方に書簡の散らばる部屋へ通されてからかれこれ四半刻ほど経っただろう。正確な時間感覚は持ち合わせていないのでそれが正しいかは定かではないが、少し重だるい空気の中に放り込まれれば、どれほど時間は短くとも長く感じてしまうものだろう。彼、原田は何度目かもわからない溜息を呑み込んだ。


「悪いな原田、待たせた」


読み疲れたのか目頭を押さえ眉をひそめる土方は書簡から顔を上げ、原田と向き合うように座り直した。


「いや。それより土方さん、話ってなんだ?」


一瞬の沈黙を埋めるように、静かだった蝉がないた。彼は腕を組み一際厳しい顔をした。
――それもとても刹那のあいだではあったが、彼の眼光が細まったのは確かである。
原田は次に出る言葉に身構え、口を一文字に結んだ。


「これからも彼奴と共同で部屋を使ってもらう。何か不穏な動きを見せれば逐一報告を忘れるな」


瞼がぴくりと痙攣した。喉の奥が渇くような感覚を覚える。


「俺たちが羅刹を抱えてるように、似たようなもん腹の奥に隠してやがるのは確かだ。剣に覚えがある上、俺たちの内情も知られてる。注意するに越したことはねえ」
「……土方さん」
「なんだ」


疑うという行為に異論はない。そうしなければ"万が一"何か起こったときに自分の身に降りかかるのだから。
それは、わかっている。彼が第一に新選組のことを考えているということも、よく知っている。だからこそ、納得がいかなかった。


「蛤御門での一件の前にあったことを教えられねえ理由でも?」
「――そういう条件だ。それ以外は言えねえ」
「陽月か…」


件の彼女とともに現れ、一番隊へ入隊した彼女の兄、陽月が今どうしているのかは知らない。同じ隊士ではあるのだが、どうしてだか屯所内ですれ違うこともなければ朝議で見かけることもなかった。それには少なからず事情を知る土方が一枚噛んでいると勝手に想像していたが、あながち間違いだったわけでもないようだ。彼が陽月を隠したがる理由はわからないが、二人の間でなんらなかの約束が交わされたことに原田は僅かな苛立ちを覚えた。
きつく閉じた唇が乾き、小さく噛む。土方は視線を逸らしため息をこぼした。


「俺達新選組にとって今は大事な時期だ。このまま好機を逃すわけにはいかねぇ。信じる信じないの話じゃ、ねえんだ」


既に過ぎた時間を振り返れば、そこにあるのは嫌悪だけではない。
同室であるが故に気づいてしまう彼女の背中の傷跡から、心の奥で湧き上がるのは罪悪感のほかならない。そのたびに、汗の滲む手のひらで刀の柄を握り締めるのだ。


「原田、」


小さく吐いた息はとてつもなく重かったような気がする。原田は土方にいつものように笑って頷き返し、用はそれだけだと告げた彼から逃げるように部屋を後にした。
少しだけ燻るあまり心地よいとは言えない感情の反面、それでもおそらく、彼から正当な理由とそういった状況が重なったとき、躊躇なく既知の人間すら殺すことはできるだろうと思った。そうでなかればいけないのだと、言い聞かせた。

――そうならなければいいと願いながら。





一人になった部屋の中で再び溜息をついた。物事に存在する優先順位というものを見誤ったつもりはない。それは恐らく、正しいものであると信じている。
それでも結局彼女に獲物を持ち歩くことを許しているあたり、矛盾しているというのは誰よりも感じているのだが。


「…時が来るまで、か」


以前陽月を問い詰めたところ、渋々といった様子で、


『…本人すらも知らないんだ。時が来るまで、誰にも言わないで欲しい』


とだけ零した。話を聞くに、事実半分嘘半分といったものだろう。話が飛躍的すぎるというのはもちろんだが、それよりも第六感という不確か極まりない感覚が否定をしている。それにやはり、全てを信じるわけにはいかなかったのだ。

土方は文机の書簡を横目見て、原田が座っていた薄っぺらい座布団を部屋の隅においた。褪せた紫の色はぼやぼやとしていて、もう一度溜息をついた。
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