来はいつも

潜む影は紅樺色に染まる 2 / 3


柔らかに暖かな日差しを運んでいた太陽はゆっくりと西へ傾き、部屋の空気は次第に冷えていった。原田は一刻程前に出ていったきり、未だ戻ってくる気配はない。俺は肩にかけていた羽織を寄せ、尚更小さく包まった。息を吐けばそれは白いような気がして、抱えた膝頭の間に頭をうずめる。酷く寒い所為で白くなった足先を両手で包み、じわりと忍び寄る睡魔に目を閉じた。


――どこからか枯葉を踏む音が聞こえ、柔らかな声が弾けた。


『――!』


それは誰かの名前のような気もしたけれど、俺にはよくわからなかった。声ははっきりと聞こえたはずなのに、それは明確な音となって耳に届きはしない。がさがさと相変わらず葉を踏む音ばかりが聞こえ、それに合わせて鈴の音が響いていた。

懐かしい、ような気がした。

木枯らしが吹く。寒いねと笑った声はさっきよりも近づいていた。


『ねえ、――はどうしていつもそんなところにいるの』


その言葉に返す声はなく、いつの間にか葉を踏む音も声も聞こえなくなっていた。ただどこからか鈴の音ばかりが流れてきて、俺はゆらゆらと水のような中で揺蕩っているような感じがした。そんな感じはしたけれど、呼吸は苦しくない。水面の向こう側で、誰かが待っていた。


「――な…名前」


寒い。ぶるりと身を震わせる寒気にくしゃみを一つして、顔を上げた。赤い何かが視界の端で揺れる。それは外から漏れる夕日の赤に染まり、より赤々しかった。


「風邪ひくぞ」
「……左之、さん。おかえり」
「ああ、ただいま。土方さんが呼んでるぞ」


土方さんが、と言葉を反芻すれば、彼は頷いて障子を開ける。ひんやりとした風が腰を通り抜け、もはや条件反射で寒いと漏らした。


「土方さんがなんだって俺に…」


肩にかけていた羽織に袖を通し、腕をさすりながら原田の後をついていく。襟を握りしめて首を竦めれば、猫みたいだななんて頭上から声が落ちてきた。寒いんですと返せば、左のほうからどたどたと騒がしい足音が聞こえてきた。


「おい左之! ちょっと来てくれよ!」
「新八じゃねぇか、どうした」
「いいから、早く来い!」


「ったく、しょうがねえなあ」とこぼした原田を見上げれば、項に手をやりながら俺と目が合う。――一応、俺は幹部の誰かと一緒ではないと土方あたりから静かな怒気が飛んでくるのだけれど。そんな俺の気持ちが伝わったのか、彼は笑って俺の肩を叩いた。


「土方さんの部屋はわかるよな」
「…ちょ、左之さん? 俺は――」
「土方さんなら大丈夫だって」
「むしろその逆だって! 嫌ですよ俺怒られたくな――! ってちょっと左之さんってば!!」


ひらひらと手を振りながら、赤い髪は角を曲がって見えなくなった。残された俺は今まさにその怒られる相手の部屋へと行かなければならないのだから、これは永倉を恨んでもいいということだろうか。こんなところでうろうろとしているのは逆に不審であるし、かといって土方の部屋に向かうのも勇気がいる。誰か運よく幹部方が通ってはくれないだろうか――。


「あら、あなたは」


ぴしりと体が強張るのを感じた。今一番聞きたくないその声は、紛れもなく俺に話しかけている。ぎぎぎという効果音が聞こえてきそうなほど恐ろしくゆっくりと且つ引き攣った笑みを浮かべながら、振り返った。


「コ、コンニチワ…伊東さん」
「ええ、今日は」


振り向いた先にはにこりと微笑む伊東の姿があった。ああ、悪夢だ。これはバレれば間違いなく大目玉である。できればこのまま挨拶だけで通り過ぎてくれと心の中で何度も何度も唱えている間に、伊東は俺との距離を一歩詰めて首を傾げた。


「あなたは稽古に参加なさらないの?」
「え、あ…自分は、ですね…」


予想外の展開に頭が付いていかない。顔が尚更引き攣る。嫌な汗がこめかみを伝う。喉が急速に乾いていった。


「皆さんとは親しいようだけれど、私、あなたの事は平隊士だと思っておりましたわ」


平隊士でいいですからどうかこのまま立ち去ってください。喉にまで出かけた言葉を飲み込み、なけなしの頭を懸命に稼働させる。下手に嘘を吐けば突かれたときに答えあぐねてしまうし、かといって新選組の秘密を知ってしまったから云々などと言えるわけもない。俺がひたすら「えー」とかなんとかと時間を稼いでいる間に、彼は名前を教えてなどととんでもない要望で切り返してきた。


(あ、だめだ)


とりあえず名前を名乗ってから話をそらそう。よし、と方向性を決めたところで生唾を飲み込んだ。その時。


「伊東さんじゃないですか。どうしたんです、そんなところで?」
「そっ…お、沖田さん、巡察から戻られたんですね」


沖田は俺と伊東の間に身をすべり込ませ、にこりといかにも人の良さそうな笑みを浮かべた。


「是非とも彼とお話をしてみたくてねぇ」
「彼は地方の田舎の出で学もありませんし、伊藤さんとはお話にもならないですよ」
「あらそうなの、皆さんとは随分仲がよさそうでしたけれど、」
「ええ、一応彼も同じ道場の出身ですからね」


まあそう、なんて楽しくもないだろうに笑う彼はちらりと俺を一瞥し、目を細める。ここは彼に甘んじて背中に隠れたほうが良いのだろうかと思案していれば、伊東は尚も好奇に満ちた目で俺を見ていた。――今すぐにでも逃げたい欲にかられるが、そうすれば返ってより顔を覚えられてしまう。今は彼が立ち去るまでひたすら耐えるしかない。


「――時代に乗るには文学も大事ですから、もし学びたいとあらばいつでもいらして。あなたなら大歓迎ですわ」
「…有難うございます。機会があれば、是非」


沖田の隣に並びまっすぐ視線を合わせれば、彼は満足げに頷いて踵を返した。静かな足音が突き当りを曲がって消えたところで、俺は大きくため息を吐いてしゃがみこんだ。寿命五年分は搾り取られた気がする。俺が「タイミング悪」とつぶやけば、頭上から呆れた声が降ってきた。


「伊東さんに気に入られるなんて幸運だね」
「……今はその皮肉すら安心するよ、ほんと…」


もう一度深く溜息を吐きながらふらりと立ち上がれば、少し機嫌の悪い沖田と目が合う。


「大体、なんでこんなところ一人でうろちょろしてるのさ。僕がここを通ったからよかったけど」
「……土方さんに呼ばれて、途中まで左之さんがいたんだけど…永倉さんに連れていかれまして…」


沖田は片眉を器用に吊り上げて笑うと、馬鹿だね名前はと罵倒された。なんでと口に出そうとしたのを遮られて、指を指される。


「それを理由に、さっさと逃げちゃえばよかったじゃない」
「あ」


稽古に参加しないのかと問われた時点でその答えが最も有効であったのに、悉く頭から抜け落ちていた。がくりと肩を落とした俺は顔を手で覆いながら既に去った過去を悔いた。何故こういうときに限って頭が働かないのか。


「…もういいや……有難う、とりあえず俺は土方さんのところに行かないと」
「はあ、だから、僕がいないと土方さんに怒られるんでしょ」


そうだった、と思い出して、先を行く沖田の後を歩く。この後土方に何を言われるのか想像がつかないが、どちらにしても伊東との会話で既に気力を根こそぎ奪われている。何を言われても耳を通り抜けてしまいそうだ。


「名前、もうついちゃったけど?」
「うわあ…」


この心情を嘆くように遠くで烏が鳴いた。俺も遠くに行きたいなんて内心笑えば、沖田はそんなもの知るかと言わんばかりに障子に向かって「ほら名前早く」なんてわざとらしく声を上げた。――折角の感謝の気持ちをすべて無碍にされた気分だ。俺は右手を握りしめて顔面に拳を突き出せば、ふわりと難なく避けられた。


「お前らいつまで廊下に立ってる気だ! 入るなら入れ!」


俺は沖田を睨みあげながら、小さくありがとうと呟いて障子に向かって「名前ですけど、入ります」と一応気づかれてはいるが許可を取る。すすと障子を開ければ、後ろで忍び笑いが聞こえた。


「どういたしまして」


ぽつりと零した声を残して、振り返ればもう沖田の背しか見えなかった。
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