来はいつも

潜む影は紅樺色に染まる 3 / 3


蛤御門での一件の所為もあって、俺には酷く重たい空気のような気がしてならなかった。土方に勧められた座布団は薄くて固く、居心地が悪い。呼吸をしていなかったんじゃないかと思うほどの息苦しさに、小さく深呼吸した。


「…あの、用、とは?」
「伊東には、すれ違っても挨拶程度で済ましておけ。何か聞かれたら平隊士で通せ。今日下手に喋っちまったからな、あんまり目ぇつけられねえようにしとけよ」


彼が言い切らないうちに顔が歪んだのが自分でもわかった。土方は怪訝な顔をしてどうしたと俺に問いかけてくるも、なんと答えていいものかと再び頬が引き攣る。とにもかくにも、今日はすべてにおいて不運である。


「…すみません、土方さん」


もし星座占いや血液型占いというものがこの時代にも普及していたとすれば、今日はすべてが最下位であったと自信を持って言い切れる。


「もうすでに、今さっき伊東さんに声をかけられました…」
「……チッ、何だって声かけられてんだよ」
「いや、あの…たまたま左之さんと離れた間に」


伊東に声をかけられてからここに来るまでのあらましをざっと話せば、土方はその端正な顔を歪ませて溜息を吐いた。こればかりはもう縮こまるよりほかにない。肩を竦めて俯けば、土方は呆れと諦めを含んだ声音でいう。


「…まあ、もう話してきちまったんなら仕方ねえ。以後気を付けろ」


はい、と返事をしてからどうしろというんだと疑問もわいたが、そこは次からなんとしていくしかない。会話が途切れ、再び圧し掛かる沈黙に自然と視線が下がる。正面に座る土方の襟合わせをぼうっと眺めていれば、部屋の中が一際眩しく赤みがかった。家並みに沈む夕日が足掻くように色彩を放っているのだろう。彼の疲労で少し青みがかっていた頬が、火照ったように色づいた。


「…いつも流されてばかりのお前が反論したのには、少し驚いた」
「はい?」


その声につられて顔を上げれば、土方は障子の向こうの赤を見ていた。


「伊東にだよ」
「それは…すいません。つい」


あの物言いは、どうしても許せなかったのだ。そんなのはあの場にいた誰もが感じていたものであるだろうから、我慢が足りなかったのだと言われればそれまでだけれど。罰が悪くて俯いた俺に、土方は小さく笑って「いや」と呟いた。


「…明日、斎藤が昼の巡察当番だ。ついていくか?」
「……え?」
「一年も経ちゃあ、外も恋しくなるだろ」


風に揺れて障子がカタカタと鳴く。俺はしばらく瞬きも忘れて土方を直視したまま、石像のように固まっていた。すうと吸い込んだ空気は相変わらず冷たくて、同時に心臓の奥が少しだけ痛んだ。無意識に緩んだ口許を晒して、俺は身を乗り出す。


「外に、出てもいいんですか? 俺が…?」
「ああ。但し、巡察の時だけだ」


下唇を噛んで、右手で口元を覆う。そうでもしないと今にも笑ってしまいそうで、俺は頭を下げた。


「有難うございます…!」
「朝飯食った後、支度しとけ。斎藤が呼びに行くだろうからな」


見上げた先で少し表情を歪めた彼は腕を組み直し、視線を逸らす。次第に薄暗さを増していく室内を見渡して、土方は徐に立ち上がった。すすと開けた障子の先で、逆光になって黒く浮かぶ人影を見つけた。それはびくりと肩を揺らして振り返ると、ゆっくりと右手を上げる。


「あー…えっと、飯だってよ」


赤い髪がはねて、乾いた笑い声が漏れた。


「あれ、左之さんだ」
「悪かった、名前。絡まれたんだって?」


右手を顔の前で立てて申し訳なさそうにする原田に思わず吹き出して、俺は肩でくつくつと笑いながら頷いた。


「今度代わりに奢ってくれればいいですよ」
「可愛げないな、お前」
「土方さんに何も求めてませんから」


立ち上がりながら眉尻を下げてそういえば、彼は片眉を吊り上げて顎を引く。原田が隣で同じように吹き出したのを聞いて、俺は小首を傾げて彼を見上げた。その視線に気づいた原田は「何でもねぇよ」と笑ってくしゃりと頭を撫でる。土方を見ても反応は同じだった。


「用はそれだけだ。広間に行ってろ」
「え、いいんですか?」
「一人でいけんだろ」


俺は見開いた目をぱちくりとさせて、頬を人差し指で掻いた。これは束の間の自由なのだろうか、それとも少しは信用されたということなのだろうか。俺がその判断に困っていると、原田に肩を掴まれ行って来いと押されてしまったので確かめる間もなく広間へと向かう他なかった。理由というのは単なるおまけにしかならないことのほうが多いけれど、今はただひたすら環境というのか心境の変化に疑問が募るばかりだった。





納得、というのかなんというのか、随分腑に落ちないような雰囲気の彼女の背を見つめながら彼は小さく笑った。


「どういう心境の変化か聞いてもいいのか?」
「どうもこうもねぇよ。観察対象であることに変わりはねえし、原田にもこの間話した通りだ」


厳しい表情を浮かべる土方の眉間に、以前ほどの険しい皺は刻まれていない。代わりにその双眸ばかりぎらりと鋭く光ってはいたが、夕闇の薄暗さの中では紛れてよく見えなかった。原田はもう見えない背中と彼とを交互に見やりながら、自身の赤毛を乱雑にかき回した。

潜む影は紅樺色に染まる

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