来はいつも

終わらない緋色が笑う 1 / 3


冷たく乾いた風が、襖を揺らす音で目が覚めた。月明かりが異常に眩しく、手前で寝ている原田の影がこちら側に伸びている。俺は夜着を剥いで、枕元に置いた羽織に袖を通した。彼の足元をすすすと移動して障子を開ければ、冷たい風が首元を通り抜けていった。後ろ手に障子を閉めれば、冬の夜の静けさに自然と身が震える。俺はくしゃみを一つする前に部屋を後にした。

ねっとりとした嫌な空気を吸った。冬なのだから乾いているはずの空気が、皮膚に纏わりつくような粘着質で不快感さを帯びている。だからだろうか、こんな夜中にこうにもはっきりと目を覚ましてしまったのは。
別段行く当てもなく、ふらふらと屯所内を徘徊する。昼間土方から告げられた有効期限がいつまでとわからない自由行動の許しに託けて出歩いてみたはいいものの、ただ底冷えのする寒さと悪寒に後悔の念がよぎった。何ともなしに気まぐれに散歩を楽しむような環境ではない。
俺はやけに冴えた眼をこすり、突き当りを曲がろうとして立ち止まった。


(――声?)


静かに潜められた声は二人分で、片方が聞き取りやすいことからそれが千鶴なのだと分かった。この時代の男性は悉く声が低くて響かないのだ。俺は壁に背を張り付けてそろりと顔を出した。そこには案の定、千鶴の姿があった。彼女は三和土に降り、今にも八木邸を去ろうとしているように見えた。


「――私、部屋に戻ります!」
「いい子だね、千鶴ちゃん。僕は中庭でも一回りしてこようかな」


そこでようやく聞こえた相手の声から沖田であろうと予測できてしまったので、俺は息を吐いて踵を返した。いや、逃げも隠れもする必要などない――恐らく――のだから引き返すこともないのだろうけれど、どうにも彼に見つかってしまうのはいただけない。ぱたぱたとできるだけ静かに小走りで戻っていく彼女の足音に気を取られていたせいで、俺は近づくそれに気が付けなかった。


「――僕が気が付かないとでも思った?」
「!! っそ、そう――!」


突然背後からかけられた声に吐き出せる限りの息を以て叫んだ声に、彼は言い終わらないうちに「しー、皆起きちゃうよ」と慌てて俺の口を塞ぎにかかる。ふがふがと鼻まで塞がれてしまって息ができずにもがいていれば、沖田は楽しげに笑って手を放した。俺が静かな廊下に響かないよう噎せていれば、未だ隣で腹を抱えて笑っている。原田に沸点が低いなどと言わしめた俺は、拳を固めて彼の顔面めがけ突き出した。沖田はひらりといとも簡単に身をかわし俺の手首をつかむと、くいと引き寄せた。文字通り目と鼻の先にあある端正な顔立ちに息が詰まり、思わず顔を逸らす。一瞬彼の瞳が菜の花のように黄色く見えた錯覚を、目を閉じることで消し去った。


「こんな時間に名前もお散歩?」
「俺は、ただの散歩。それよりも、近いんだけど」
「寒いし風冷たいのに? 若いね」


話聞けよ、と悪態吐いた声にすら無視を決め込まれ、そして徐に彼の酷く冷たい指先が首筋に触れた。なんの身構えもなかったため、なんとも言い難い情けない声が漏れてわなわなと下唇を噛んだ。今なら耳まで赤いだろうにと自覚すれば尚更熱くなって、勢いよく掴まれた腕を引けば彼はふうと息を吐いて手を放した。――溜息を吐きたいのは俺のほうだろうが。


「――もう寝る!」
「はいはい、お休み」


くるりと踵を返して火照った頬を冷たい両の手で冷やしながら数歩進んだところで、名前を呼ばれる。その声が酷く真剣だったものだから、俺は振り返らざるを得なかった。


「…君にも分かるんでしょ」


何が、と口の形を作ってから噤んだ。その声はおそらく、俺と同じものを感じている。この屯所に身を置いて日の浅い俺がわかるのだから、彼らが何も感じないわけがないのだ。


「――だから総司は、見回ってるんだ?」


頷きも否定もせず、沖田は小さく笑った。明り取りから漏れる月の光が彼の頬を青白く反射させるので、この雰囲気に呑まれそうになって背を向ける。もう、彼は何も言わないだろう。ぺたりと踏んだ床は冷たくて、湿っていたような気がした。


「早く部屋に戻りなよ」


反対側に進む足音を聞いてから、俺は右の角を曲がった。相変わらず皮膚に纏わりついてくるそれが苛立たしくて、気持ちが悪くて、胃から込みあげる酸味を飲み下した。
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