未来はいつも
ぺたりぺたりと足音が響く。ふと見上げれば口元で霧散する白い息の向こう側に、白袴を見つけた。彼女は奥の広間の襖を見つめながら立ち止まっていた。小声で千鶴、と名を呼び近づけばびくりと大仰に肩を震わせて振り向いたので、思わず俺も声を上げそうになって口を塞ぐ。
「びっびっくりした…!」
「そ、それはこっちの台詞だって…っ! どうしたのさ、広間の前で」
それから千鶴はちらりと広間を横目見て、
「音が、したから」
「音? こんな時間に…?」
彼女は少し青ざめた顔をして広間と俺とを交互に見やる。その視線から目を外し一瞬思案に耽れば、ああそうかと無意識に言葉が落ちた。皮膚に纏わりつくこの空気が、濃さを増していた。――俺は親指を鍔に引っかけながら、襖に手をかける。
その奥に広がっていたのは、薄暗い月明かりに照らされた一つの影だった。
「山南、さん?」
俺の声に反応するように影はゆっくりとこちらに振り向き、小さく息をもらした。
「まさか、君達に見つかるとはね。正直、予想していませんでしたよ」
僅かに一歩引いた彼の表情が漸く月の光に反射し、目があった。その口元には何とも言えずに歪み、眼鏡の奥の瞳が揺らいでいるように思える。俺は広間に一歩足を踏み入れて彼を見据え、微かに震える唇を動かした。
「山南さん…それ、何…?」
「ああ、これは君の父親である綱道さんが、幕府の密旨を受けて作った"薬"です」
山南はその掌にすっぽりと収まる硝子の小瓶を持ち上げ、薬にまつわる今までの経緯をあっけらかんとした調子で語り始めた。それは彼ら新選組が俺たちに必死で隠し続けてきた"本当の大義"であったはずだ。それをいとも簡単に何事もないかのように話す彼は、ただただ狂っているようにしか見えなかった。
「残念ながら彼は行方不明となり、"薬"の研究は中断されてしまいましたがね。…あの人が残した資料を基にして、私なりに手を加えたものが"これ"です」
彼が手元を揺らせば、硝子の中のおどろおどろしいほどの赤みを帯びた液体がちゃぷんと波打った。同時に空間がぐにゃりと歪んだ気がして、俺はこめかみを抑える。ちかちかと視界の端がちらついて、胸の奥に何かがつっかえる。ずきりと首筋が痛んだ。
「その原液を、可能な限り薄めてあります」
「それを使えば、大丈夫なんですか。その薬なら、狂ったりしないんですか……?」
千鶴の質問に彼は困ったように微笑をたたえ、首を振る。誰にも試していないからわからない、と呟いた山南の声は、確かに何かを決意していた。何かと表現するにはあまりにこの先の選択肢は少なく、確定されてしまっている未来だった。
俺はぎゅと掌を一度強く握りしめてから、硝子の小瓶へと手を伸ばす。
「っ!」
ひらりとかわされた挙句、彼はひょいと俺の足を引っかけると一定の距離を置いて後退する。膝を打ち付けた俺が身悶えしていると、呆れた溜息が聞こえてきた。
「何故、私の邪魔をするんです。あなたには関係のないことでしょう?」
「関係ないかもしれないですけど、今あんたからそれを取り上げないと、俺はきっと後悔しますから…だから、」
「だから、大人しく渡せとでも?」
ぎらりと熱を孕んだ双眸が俺を射抜く。立ち上がり再び構えた俺は息を詰めて口を真一文字に結んだ。
「…うまくいけば私の腕は治ります」
「そんな保証どこにもない! 薬に頼って狂ってあんなのになって、そしたらどうするんですか。みんな、みんな山南さんの腕が治ること――」
「こんなものに頼らないと、私の腕はもう治らないんですよ!」
俺の声を遮って声を荒げた山南は左腕を握りしめて、眉間に険しい皺を刻んでいる。その腕が治らないことは本人が一番理解しているからこそ、いくら言葉を重ねたところでどうにかなるはずもなかった。どれほどの劇薬とわかっていようと、彼にとって今その薬は唯一の救いであるはずなのだから。
「私はもはや、用済みとなった人間です」
硝子の小瓶を眺めながら、ぽつりと呟く。
「剣客として死に、ただ生きた屍になれというのであれば――」
ゆっくりと蓋をあけ、昔の山南のように淡く微笑んだ。
「人としても、死なせてください」
――月が刹那雲に隠れてしまうから。まるで彼に促すかのように、手を出す瞬間さえ与えずに。
そうして、酷くゆっくりとした動作で小瓶に口を付け、傾けた。喉が波打ち、ごくりと飲み下した瞬間するりと小瓶は手から落ちて砕け散る。ガシャンとまるで遠い音のようにも聞こえたそれは、何かが崩れていく音のように聞こえた。
彼はその場に膝をつき、襟をきつく握って苦悶の声をもらす。
「ぐ、ぅ…!!」
「山南さん!!」
千鶴が山南に近づこうとしたのを左手で制し、奥歯を噛んだ。ぎりぎりと拳を握っていた俺は彼女が一歩踏み出したことに気づけずに、その背中を見送ってしまった。山南さん、と高い声が広間に反響するより先、彼の腕が彼女の胴を薙ぎ払う。悲鳴とともにガンと硬い音がして、俺はすぐさま左に視線を映し声を上げた。
「千鶴…!」
「名前、君…! だ、め」
壁に肢体を打ち付け崩れ落ちる彼女は、床に手を突き何度もえずく。おそらく刀が先にあたったのだとわかり一瞬、ほんの一瞬だけ息を吐いた瞬間、気が付いたら視界が反転していて背中に激痛が走った。がはっ、と呼吸が詰まり、視界がかすんだ。その先には歪んだ山南の顔が広がり、月明かりだけが腹立たしいほど眩しかった。
「さ、ん、な…んさん…!」
山南の大きな手が俺の首を絞めつけ、狂気的な笑い声を上げている。息ができずに喘ぎながら、必死に手を伸ばし彼の襟を握った。
「あ゛、ぐ…! っさん、なん…さん……っ!!」
口中が異様に乾いて、頭の中が白くぼやけていく。手先の感覚さえなくなりかけて、それでも我武者羅に襟を握りしめ続けた。言葉になっているのかも怪しいが、それでも何度も何度も山南さん、と呟いては噎せた。
「名前、く…ん…!」
悦楽に細めていた赤い瞳が揺らぐ。ふっと力が弱まったその時に握りしめていた右手を横に振り払って退かせた。彼は転がるように落ちると床に額を擦りあてながら再び苦悶に喘ぎ、震える右手で刀を抜いた。
「げほっげほ、っは、…は、っ!! や、め…!」
白刃がきらめく。まるで早く早くと急かすかのように刀身を輝かせていた。
感覚も朧な右手を伸ばす。すぐ、目の前に彼の腕がある。手を伸ばせば、きっと届くはずだ。
どたどたと忙しない振動が床を伝わり頭を揺らした。ああきっと総司だななんてやけに冷静につながった思考は、霞んでいく視界のように徐々にぼやけていった。
ぐぷり、と厚い肉を貫き裂く音が響く。びしゃと飛び散った血液が俺の半身に降りかかり、生温かい血が頬を伝い落ちた。
「名前!? っ山南さん、千鶴ちゃん…!」
ごろりと転がる頭が重くて起き上がれない。そういえば呼吸をしているのかしていないのか、それさえもわからなくて、重たい瞼が閉じようとするのに必死に抗い、手を伸ばす。自身の治癒能力に余計苦しむ山南は、貫いた刀を引き抜いた。赤い鮮血ばかりが舞い散り広がり、力尽きて落ちた左手がびちゃりと血だまりに沈んだ。
山南さん、と誰かの声が静かに落ちた。
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