未来はいつも
誰よりも知っているはずの自分という存在を、果たして一体誰が明確に証明することができるのだろうか。この曖昧な記憶に潜む自己認識の裏側は、いつだって優しく肯いてくれるものだと、一体誰が言い出したのだ。
善意にまみれた優しさなど、あるわけがないだろうに。
雀の鳴き声で目を覚ました。なんたる平穏な朝かと顔の半分を覆う布団の中であくびをひとつかみ、筋肉疲労でぎしぎしと軋む体を起き上がらせる。先日の夜は遅番であった原田はいまだ横で規則的な寝息を立てており、起こさないように手早く身支度を整えてから顔を洗いに部屋を出た。既に朝の支度をする屯所内は人の声がどこからともなくあがり、朝餉のいい香りが空腹を訴える脳を揺さぶる。お腹が減ったなあと軽い伸びでもしながら井戸へと向かい、冷たい水を汲み上げて袖が濡れるのも気にせずに水を掬った。
「あれ、名前じゃん」
手拭いで顔を拭っていれば後ろから少し掠れた声が弾ける。振り向けば案の定藤堂がそこにいて、寝癖の酷い前髪を掻き揚げながら寝ぼけ眼で「おはよーさん」と笑った。
「おはよ、平助」
「おー…」
ばしゃばしゃと水飛沫を上げながら乱暴に顔を洗った彼は、髪から滴る水を手で払うと井戸の縁に腰かけるようにして振り返る。一昨日の遅番を引きずっているのかその双眸は気だるげで、うっすらと隈ができていた。
「掃除もいいけどさー、土方さんオレにばっか廊下の雑巾がけやらせんだぜ? 洗っても雑巾の臭いとれねえんだけど」
「まあ、病の見本市とまで言わしめただけあったよね。米のとぎ汁でもつかえば?」
くくくと笑いながら歩き始めれば、ぶつくさと文句を呟く彼が後に続く。草履を脱ぎ捨てて綺麗になった廊下に今までの汚さを重ねれば、少しだけ気分が悪くなった。あの中で生活していたのだと思うと、吸っていた息を最大限にまで吐き出したくなる。
ぺたぺたと裸足特有の音を二人分鳴らしながらだらだらとした会話をして、左右に分かれる突き当りで立ち止まった。右に行けば俺と原田の部屋、左は藤堂の部屋に続いている。
それじゃあまたあとで、とひらりと振り上げた右手に、彼は応と答えて踵を返す。離れていく足音を背に廊下を突き進めば、近藤や土方の部屋がある方から体格のいい剃髪の男が現れた。
「おはようございます、松本先生」
「おはよう、名前君、だったかな」
柔らかに微笑んだ彼に「はい」と頷く。彼は腕を組んで満足げに廊下を眺めていた。
彼、松本良順は先日の将軍上洛の際に近藤が連れてきた医者で、昨日の隊士全員の健康診断と大掃除の命令を下したその人であった。何でも千鶴の知り合いのようで、その話で近藤も彼をここに呼んだようだ。例外にもれず俺も一隊士として健康診断には参加したのだが、となれば必然的に性別は知られてしまうわけで、こうして名前を覚えられるに至ったのである。事情を話すことまではしなかったが、それでもこの男所帯にそれなりの年齢の女がいることは彼にとって驚きだったのだろう。その場にいた千鶴と一緒にただ苦笑を浮かべるほかなかった。
「いや、普段からこれくらい綺麗であれば、あんなにも体調を崩す隊士などいなかっただろうに」
「…以後、気をつけます」
あははとやはり苦笑いしか出てこず、少しだけ湿った袖をめくった。
「君も、しっかりと傷の手当はせにゃあならんぞ。首にそんな傷痕を残して…切り傷も、膿めば大事になりかねん」
まったく、と溜息を吐く松本とそれから当たり障りない会話を少しばかりしてからその場を離れた。病人と診断された隊士を診に行くらしく、彼は一時的に置いた病室へと大股で歩いていった。
ざらと、首筋を撫でる。少し肉の盛り上がった、乾いてがさがさとした傷痕は日を追うごとに存在感を増していた。おそらく昨日よりも、色濃く痕を残しているのだろう。
「……」
飲み込んだ息は、腹の奥で苦さを訴えた。
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