来はいつも

沈殿する黒橡色の呼吸 3 / 3


少年が笑っていた。菜の花に似た黄色い瞳を細めて、何かを囁いている。動く唇に合わせて震える音が聞こえなくて一歩近づけば、足元から崩れ落ちていった。少年は、相変わらず笑っていた。



微睡んでいる意識も覚えずに目が覚めた。やけにはっきりと冴えた頭は夢でさえも淡々と処理をしていき、ずれた時間感覚の理解を求めて障子の先を見た。障子越しに映る薄暗さは、未だ朝を迎えていないことを教えてくれた。


「…名前」


聞き馴染んだ声が弾ける。穏やかな木漏れ日のような声につられて振り仰げば、目に痛い金髪が飛び込んできた。
――陽月。そう口にしたつもりでいたけれど、それは頭の中で響いただけで乾いた空気が喉を通った。


「大丈夫か、傷が開いたんだとよ」


その言葉を受けてはたと首を傾げた。開くような傷は持ち合わせていない。背中も手首の傷もとうに塞がっているし、他に何かの怪我を負った記憶もない。一体どこの傷が開いたというのだろうか。
声に出さずとも言わんとしていることが伝わったのか、彼は恐ろしいほどに柔らかな笑みと苦渋に歪む目元を向けて言い放った。


「首の傷"痕"」


言い終わらないうちに、右手が首筋に触れる。幾重にもまかれた包帯は、同時に息苦しさも引き連れてそこにある。一切の細胞が死に絶えたように、指先が少しも動かなかった。


「…ねえ、春」


俺を通して、誰を見ているのか。気づきたくもなかった。


「お前はね、いつだって死にたがりだったよ」


俺はどこまでいっても名前で、春はもう死に、どこにもいないと。


「死にたがりの癖に、誰より生きていたかった」


本当は、もっとずっと、生きていたかったんだよね。
優しげな声が通り抜ける。俺じゃあ、ない。そう叫びたいのに声が出なかった。
――耳を塞ぐ術もないのなら、いっそ誰かこの両耳を切り落としてくれればいいのに。


「春の記憶を、思い出していくたびに――名前は名前でなくなっていくんだ」


さらりと慈しむような手つきで前髪を梳いた。春、と形のいい唇がそう漏らすたびに目の奥が焼けるような痛みを覚えた。


「代償なんて全部嘘っぱちだ。俺はカミサマなんて無責任なもんじゃない。…俺は…何かを奪うことしか、できない」
「……ひ、づき」


声がかすれる。
痛みの所為ではなく、傷の所為ではなく。悲しい所為ではなく、苦しい所為ではなく。
彼は泣きそうな顔をして、横たわる俺の腹に額を乗せた。布団越しに伝わる体温は、ひどく冷たかったような気がする。


「…忘れてほしかった。忘れてでもいいから、あんたにちゃんと、生きてほしかった」


布団の所為でこもる声に、鼻の奥が痛んだ。ここ最近の違和感の正体は、紛れもないそこにあった。気づいたところで今は何を考える余裕さえないけれど、そんなことすらどうでもいいと思ってしまうほどに彼の上下する背中ばかりを見つめていた。先程より強くなった朝日の色に、金色の髪が反射する。そのまま布団の白さに溶けて、消えてしまいそうだった。
そうして陽月はずびと鼻を啜る音を隠すように立ち上がった。


「俺にとって春は大事だけど、同じくらいに名前も大事なんだよ。…生きてほしい、俺は今のお前に、生きてほしいんだ。生きて生きて、それで、春が見つけられなかったものを、見つけてあげて」


苦々しい笑顔は、視界がにじんだせいで見えなかった。音もなく立ち去る背中に必死に手を伸ばすけれど、届くことはなかった。


「ひ、づき」


細く開けた障子の隙間から漏れる朝日に目を細める。光に溶けるようにいなくなる陽月の名をもう一度呼んでから、堪えていたものが頬を流れているのを知った。
ぱたんと静かに閉められた障子がすべての隔たりのような気がして苦しかった。
俺は俺だと思っていたことを否定されたことが苦しいのか、陽月の表情が苦しいのか、春の存在が苦しいのか、生きることが苦しいのか。もうなにも、わからない。
分からない。どうすればいいのか、わからない。どう生きればいいのか、分からない。呼吸の仕方を忘れた胎児のように、まるで海中に放り込まれたように、息ができない。

息が、できない。

ぶくぶくとあぶくが沈んでいく。淡い水面が遠退いて行く。
死にたがりの声が、泣いた。

沈殿する黒橡色の呼吸

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