未来はいつも
小さな物音で目が覚めた。真暗闇の視界の中で、障子から漏れる月明かりに照らされ黒い影がもそもそと動いている。鼻に衝く消毒液の臭いに目が染みて、俺は少しだけ鼻を啜った。
「…起こしちまったか?」
独り言のような声は普段からしてみればとても小さかったけれど、周りがおそろしいほど静かだったために眠気を覚ますには程よい声量だった。横になるこちらを窺うようにくたりと腰を屈めた影に俺は薄らと目を開けながら、「おかえり」と声をかける。おそらく苦笑いを浮かべたであろう影――原田は、隣に布団を静かに敷いて、ゆっくりと横になった。
「…痛みは?」
「ううん、へいき。石田散薬のおかげかな」
「そりゃ気のせいだな」
くくくと喉を震わす笑い声にほっとした。俺の声は、彼に届いている。少し息を吸い込んで、確かに冴えてしまった双眸を隣に向けた。
「今日は、遅番だったんですね? 巡察寒かったでしょうに」
「巡察じゃねえよ、お前が寝てる間、三条大橋の制札が引っこ抜かれる騒動があってな。それの警護だよ」
するりと首筋を撫でる。あれから幾日経ったか、昼間無人の空間で漸く目を覚ました俺にはわからなかったけれど、少なくとも原田の物言いからすればまたそれなりに眠りこけてしまっていたようだ。たたき起こしてくれればいいのになどと思ってしまうのは、僅かに過った疎外感からの苦し紛れである。
「…わざわざ制札にひとつの組が警護って、おつりが出ちゃうんじゃない?」
「昨日は、な。今日はちょっと一悶着あってよ、どうやら褒美も出るんじゃねえかって話だ」
「なんかすんごいものでも捕まえたんですか?」
「引っこ抜いてた浪士を生け捕りした報酬」
それはすんごいものですねと言えばたった一人だけどなとなんの感情もわかない声音で返ってきた。それに一瞬黙りこくってしまうのは、きっとこの頭が寝起きだったせいなのだろう。――今現在隊編成が大人数で割り振られていることから考えれば、原田の組一組に対して生け捕り一人というのはなんとも奇妙な人数差である。それが頭に浮かんでしまったがために、どの言葉も浮かばなかった。
「…でも、怪我はないようでなによりです」
「けが人に言われてもな」
「……俺が寝てる間に捻くれましたね、年ですか?」
「ふざけろ、それは新八だけだ」
なんという巻き添え。今頃くしゃみでもして目が覚めてしまったいることだろうに。
布団を口元まで引き上げてくすくすとつい笑えば、背を向けていた原田が急に振り向いて真面目な声を落とした。
「何があった」
「…なに、とは」
「同室だった俺でさえ、お前がいつ怪我をしたのかも定かじゃねえ」
月明かりのいたずらで彼の瞳がぎらりと光った。鋭い双眸が見つめているのが、空気を伝わって皮膚を刺すので痛いほどわかった。視線が交わるのが怖くなって、俺は逃げるように天井を見つめた。
「…ねえ、左之さん」
死にたがりで、生きたがりだと。彼は子供のように泣きそうな顔で、泣きそうな声で、忘れてほしかったのだと告げた。
「俺は、まだ"俺"ですよね」
は、と素っ頓狂な声が耳を通り抜ける。それに「変なこと言ってすみません」と笑えば、原田はむくりと起き上がって俺に向き合う。闇に慣れた視界の先で、赤い髪が揺れた。
「…俺の目の前にいるのは名前だろ?」
「……は、い」
「お前の名前は?」
「…名前、です」
「難しいことはよくわかんねえけど、それが全部だろ。それ以上のなにかが、必要なのか?」
自己認識という感覚において、自己の否定と肯定の線引きは非常に曖昧で危うい。自分と言う人間の存在の感覚は、そのほとんどが主観で成り立っているのだから。
俺は布団を尚更引き上げて、顔をすべて覆った。何も見えない黒が迫ってきたので、目を閉じた。
「…ちがう、んです。おれは…」
呼吸をかみ殺す。下唇を噛み締める。ぐるぐると目が回るような頭の中で、否定しても否定しても、不安が消えない。彼女はいなくなってくれない。心が、引きはがされそうな気分だった。
「こわい」
「怖い?」
ぼんやりとしていくのは眠気の所為で、指先が震えるのは寒さの所為だ。
「忘れていいわけ、ないのに」
鼻の奥がつんとする。鼻っ面に皺ができるほど強く目を閉じれば、ひやりと何かが頬に触れた。
原田がぽつりと零した名前が誰のものなのかなんて明白なのに、馴染まずに心臓から零れ落ちる。返事のできなかった俺をどう思ったか、彼は暫く無言で身動ぎせずにそこにいた。ただ、布団の隙間から零れないようにこぼれないようにと嗚咽を飲み込むので精一杯だった俺には、彼がいつ横になって、いつ夜が明けたのかも分からなかった。
夢なのか昔話なのか、頭の中に残るやけに鮮明で遠い笑顔が、息苦しかった。
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