未来はいつも
魘されることが多くなっていたのに気づいていた。夜中にふと目を覚ますたびに彼女の唇から言葉とはいいがたいわずかな音が漏れ、朝になって話を聞こうと思うもののそんなことなどまるで身に覚えがないというようにけろりとしているからいつも聞きそびれていた。それと首の傷に何の関係があるのかはわからないが、少なくとそう考えてしまうあたり関連性があるのだろうと思わざるを得なかった。相変わらず陽月の姿を屯所で見かけることもなく、その事情を知っているはずの土方はなにも言わない。そんな現状に、苛立ちに似た歯がゆさを感じていた。すっかり情が移ったか、と笑う永倉よりは確かに長く一緒にいる分思うところも原田自身あるのだろう。それは誰に言われずとも自分が一番よく分かっていた。
もう大丈夫だからと広間で朝餉を摂る名前の姿をちらと横目見ながら少しかたい米粒をかむ。沖田が炊くご飯は毎度のことながらすこしかたいのだ。どうしても作り手である本人の好みに偏ってしまうのだから仕様もないが、今はそれが口の中に残って面倒だった。
「どうした左之、腹でも下したか」
「拾い食いでもしたんじゃねえの」
「…手前ら、俺を何だと思ってやがる」
左右の永倉と藤堂が気にかけてくれているというか茶化されているというか、そんな二人の言葉にくくと笑いながら味の濃いほうれん草を口に突っ込んだ。思ったよりもしょっぱかった。
原田の視線だけじゃなく、沖田の物言いたげな視線にどうしたものかと考えながら噛んでいた米は甘みを通り過ぎてもはや味も形もなくなっていた。よかったな寝て治って、と怪我の事情を知ってか知らずか藤堂の楽観的な言葉に安心してほんとにねと返せば、かちゃんと二席ほど離れた沖田が静かに箸をおいた音が聞こえた。かすかな音が聞こえてしまうほどには、俺も彼の視線を目で返しているということだ。咀嚼の合間の休憩らしいその動作は無意識かは知らないが、どちらにせよ自意識過剰でもなく彼の意識は紛れもない自分に向けられている。思えばいきなり傷跡が鮮やかな血を吹きだすほどの傷口になった具合を目にしたのだから、それもそうかと他人事のように納得できた。
出血の割に傷口は深くはなく、幸い松本もいたことでしっかりとした治療も受けれた。――というと屯所内の医者的な役割をそこそこ受け持っている山崎には申し訳ないが――跡は残るが早く治るだろうとのことだった。
――傷の治り具合の話など、本当は心底どうでもよかった。遅かろうが早かろうが、この傷が見覚えのない首にあるということだけで十分に、もちろん悪いほうで意味がある。
忘れてほしかったとつぶやく声が、耳から離れない。陽月の声が、頭から、離れない。
「…名前君? 傷が痛むの?」
「――え、あいや…痛くないよ全然。ただなんか今日お米かたいなあって」
千鶴の心配そうな顔に首を横に振り、尤もらしい感想を付け加えた。気づかないふりをしてくれたのか、彼女は「今朝の担当は沖田さんだから」と笑いながらそう言った。
「昨日は平助君だったからね」
「あ、やっぱり。すんごいやらかいなあって思ってた」
部屋に運んできてくれたご飯は気遣いで柔らかくなっていたのかと思っていたけれど、そうではなかったらしい。なんか言ったか、と尖った声が目の前から聞こえたけれど、千鶴と二人でなんでもないよと顔を見合わせて微笑む。
――そういえば最初の頃、似たような話をしたときは山南が「藤堂君はかまどから目を離すからいけないんですよ」と苦笑いをしながら話していたのをなんとなく思い出した。用があるからと空いている伊東の席に視線を向けようとしてやめた。
斎藤が作ったらしい味噌汁は、味の濃いお浸しに対してやけに薄く感じた。
「え、角屋?」
「この間ので報奨金もらってな。行けるか?」
部屋の前の縁側に出て日向ぼっこをしていれば、文机に向かってなにやらをしたためていた原田が筆を擱いて小さく笑った。俺は一瞬呆けてから、口を噤んだ。
「…それって女の人が行っちゃだめなとこじゃないの」
「……お前なんか勘違いしてるだろ。角屋ってのは飯食うとこだぞ」
「へ、そうなの。よかった左之さん無神経な人かと思いましたよ」
おい、と顔を歪めた彼はぽつりと「んなとこにお前誘うわけねえだろうが」などとこぼしたのでそうですよねと肩で笑う。俺としてもそんな趣味は持ち合わせていない。
「…でも、今日はお留守してます」
「痛むのか」
「ううん…そうじゃ、ないよ」
柱に首をもたげて空を仰いでいれば、彼が小さく身じろぎしたのがわかった。
「…なあ、名前」
振り返れば、原田は上体をこちらによじらせて苦笑いをしていた。さらりと風が首筋を撫でる。彼の赤い髪が僅かに揺れた。
「呼ばれて振り返ってんだから、紛れもなく名前はおまえだろ」
「…っ」
自分でも情けないほどに顔がくしゃくしゃになるのがわかった。瞬きをすれば零れ落ちそうになるので床板を見つめれば、ぱたと音がして床の隙間に水滴が落ちる。光に反射して淡く輝くそれは気づけば数を増していて、短くなった袖で乱暴に目元をぬぐった。
「そう、ですよね」
「ああ」
ぼやける視界の先で笑う原田にありがとうと告げた声は震えていて、井戸で顔を洗ってくると急ぎ足でその場を離れた。
言葉が重なるたびに、この心臓は自分のものなのだと自覚する。それなのに、頭の天辺から爪先まですべて己のものであるはずなのに。どうして、離れていく感覚がぬぐえないのだろう。
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