来はいつも

羽二重に人色を包む 1 / 3


床板の目に染み込む赤が、瞼の裏で居座り続けている。そんなものはとうの昔に見慣れたものになったはずなのに、どうしてだかまるで初めて刀を振り下ろしたときのように思い出しては目を瞑る。朝日が家並みから顔を出すより少し早く、彼は白い息を吐き出しながら布団から身を起こした。今日は、この気がかりの原因である彼女を連れての巡察の日だった。



土まんじゅうを見下ろす小さな背を、あの日から毎日のように見かける。朝餉を摂り終えたあと巡察までの間できっと彼女はそこにいるのだろうと、ふらりと太鼓楼から裏手に回った。色づいた葉はすっかりと落ち、味気ない玉砂利の道を染める。見上げた太い枝は丸裸で、紅葉もこの足元のそれらで最後なのだろうと思うと、思い出すのはあの十二月の終わりの小路である。あれからどれほどが経ったか、怯えていた少女は歳を重ねて随分と新選組に馴染んできた。それはすなわち、父親の行方が全くもってわかっていないということであるのだが。――とりあえずは、松本のおかげでどうやら長州藩勢の回りにいるようだというのはしれたが、何とも頼りなく不安要素しかない情報だった。
木々の間に潜むように、土まんじゅうが並ぶそこは一際静かだった。風にさらわれる葉の音は耳に優しく、木漏れ日が小さな背を斑に浮かび上がらせている。蒼いようにも思える横顔は、そういえばあの少女に対してあまり変わっていないように思われた。実年齢より幼い顔は、目の奥に憂いばかりを残して成長していない。ぼうっとそんなことを考えていれば、彼に気づいた名前は抱えていた膝を伸ばして立ち上がった。少しだけ困ったように眉尻をわずかに下げるのは、恐らくここ最近の癖なのだろう。


「総司…、もう時間だった?」
「ううん、なんとなく来てみただけ」


そう、と小さな声がぽつりと落ちる。風の音がやけに大きく聞こえた気がした。


「…ここの下には、誰もいないのにね」


唐突にそんなことを言った彼女の視線の先には、あの人の墓に供えられた、まだ
白い煙を立ち上らせる線香と花があった。風が吹くたびに微かに揺れるのが虚しく、そうだねと返す言葉しか見つからなかった。彼女の言葉が自嘲に近いものであったのか、それとも自責かなんなのかは、彼女とは別の個体である彼にはわからなかった。


「この間――」


無意識にだろうか、名前は左手首を気にしていた。


「山南さんとは、なんの話をしてたの?」


それまであっていた目線が下げられ、瞬きの回数が増えた。長く伸びた前髪が、その両目を奥へと追いやる。遠のいていくようで、思わず一歩近づいた。じゃり、と存外派手な音がして、名前はなおさら俯いた。――そういえばと、またあの雪の日を思い出す。口調も今より荒っぽく、食ってかかるような人であった彼女は、最近は俯いてばかりなような気がした。逃げるように視線を泳がすようになった。こんな具合の顔をよくするようになった。
ふうと、ほんの小さな息を吐く音が聞こえた。名前は土まんじゅうの前に再びしゃがみこみ、うっすらと笑みを浮かべている。


「…ねえ、総司」


ふわりと横に結わえた髪がなびく。背中へと流れた髪は隠れていた首筋を晒した。一文字の痕が、いやでも目に飛び込んできた。


「……もしかしたら、俺は山南さんと似たようなものなのかもしれないね」


どくりと心臓が笑う。原田や沖田自身が目を背けていた理解を、突きつけられる。否定の言葉は出なかった。


「…あんまり、得意じゃなかったんだ」


動揺が言葉を詰まらせる。なにが、と頭に浮かんだ言葉は喉の奥で突っかかり、表情ばかりが先走る。余程奇妙な顔をしていたのか、こちらを向いた彼女は可笑しそうに小さく笑った。それから再び視線は山南の墓に向けられ、遠くからでもわかるほどに乾いた唇が言葉を紡ぐ。


「小さい頃は動くとすぐに息が苦しくなって、運動なんかこれっぽっちもできなかったんだ。日差しが強ければ家の中で本を読んでるしかなかったし、こんなふうに、日中長く歩くこともできなかった」


唐突に昔話を初めた名前は懐かしそうに目を細めて遠い日々を追いかけながら、ゆっくりと声を吐き出していた。


「遠くから、みんなを見てた。ずっと、羨ましかった。きっといつか治るよって言われても、そんなの嘘なんだろうって、だって本当に、苦しかったから…。今でも、それは、ちゃんと覚えてる。覚えて、るんだよ…!」


ふいに喉の奥から絞り出すようにかすれた声が耳元で弾ける。両膝の間に顔をうずめるように、丸めた背中が微かに震えていた。


「……わすれたく、ない」


忘れたくなんか、ないよ。
細い白煙が立ち上る。沖田の視界を遮るように横にたなびく灰色の向こうから目を離せずに、それでいて一歩も動けずにいた。鼻をすする音がまるで別の場所であるかのように、二人の間に隔たりはないはずであるのに。
名前は目元を強くこすりながら一人で立ち上がり、心なしか早歩きで沖田のすぐそばを通り過ぎた。


「…今日の、巡察は休ませてください…ごめんなさい」


肩ごしにつぶやかれた言葉に返す間もなく、足音は遠のいていった。彼は数度酷くゆっくりとした瞬きをしてから、拳を作る。手のひらのかたい豆が、頑なな意識を繋ぎとめていた。
――懐疑心は、恐らく彼以外の皆、日に日に膨れていたのだろう。それを何者であるかと決めつけて理解するには、比較するべき対象があまりに近くにいることでうなづき難く、ただ根拠のない否定を繰り返していた。些細な相違点を見つけ出しては当てはめて、やはり"そうではない"のだと思い込む。原田も、沖田も、千鶴も。それぞれが、気づいていた。彼女の、異常性を。池田屋の時、そばにいた永倉があの時の彼女を化け物だと称してたが、それを否定するにはあといくつの理由が必要なのだろうか。


「…山南さん」


山南も、気づいている。気づかないわけがない。――今の彼が興味を抱かないわけが、ない。勝手に、乱雑に、強制的に、暴いていいものではない。不安定に積み上げられた石の上に立ちすくんでいる彼女を、まるで勢いよく突き飛ばすような真似は、したくはない。――理由など、それだけで十分だ。
掴めなかった左手を握り締めた。煙の臭いが、煩わしかった。
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