来はいつも

羽二重に人色を包む 2 / 3


素足がすべる床が冷たくなったのは、そういえばいつからだろう。いつから吐く息は白くなったのだろう。――腰に提げる鉄の重みが、酷く軽く感じるようになったのは、いつからだろう。一日という単位があまりにも早すぎて、俺はいつだって追いつけない。日毎に増す渦巻く意識に気を取られて、足元はいつだって覚束無い。

俺は、いつまで"名前"でいられるのだろう。

脳内の液体をかき混ぜられるような気持ちの悪い感覚に目眩を起こし、脈打つように痛む顳かみを抑えつけて歩く。部屋に戻ろうと歩いていた足が、堪えきれずに立ち止まった。内なる声に耳をふさぐ。そうしたところで彼女が消えてくれるわけではないことくらい、疾うに解っていた。それでも、外の音が和らぐことで、塞ぐという行為によって、声は次第に遠のいていくのだ。
ふらりと左肩を壁に追いやった。そっと手を頭から離せば、明り取りの窓の向こうにいるのだろうか、小さな子供の走り去る音を聞いた。早く、と誰かを急かす笑い声に釣られて、少し先の縁側まで歩みを進める。境内を覗けばそこに声の姿は見えなかったが、進行方向の曲がり角から山崎が現れた。萌黄の普段着を身にまとう彼は、少し驚いたように目蓋を上げ、それから俺の視線を辿るように外を見ながら歩み寄る。


「……いつの間にか、銀杏の葉もすべて落ちてしまったな」


俺の視線の先には確かに、落葉も終え寒々しい枝ばかりが上へと伸びる銀杏の大木があった。その裾に広がる銀杏紅葉も風に巻かれ、色味のない玉砂利が広がっている。
そうですねと返した声は、自分が思うよりずっと抑揚がなかった。気のせいであると意識にも留めずに流してもらって一向に構わなかったのだが、山崎の職業柄か人柄か、どうかしたのかとそれとなく問いかけられた。問いかけられるほどには、俺もこの居場所に慣れたのだと自負してもいいのかもしれない。ただ、人付き合いが昔から得意でなかった俺にとって上手い言葉回しも笑顔も出てこず、結局微妙な面持ちで首を横に振る他なかった。これではいかにも何かあったと言っているようなものである。案の定、山崎はわずかにその眉尻をさげていた。


「……大人になれば、悩まないものなのだと思ってました。きっと、大した経験も積んでこなかったせいですね」


歳など気づけば曖昧で、今がいくつであるかなど忘れてしまったが、二十歳もすぎればいい大人である。――さらに言えば、いわゆる年増である。こんな閉鎖的空間に年単位でいれば、それは感覚も狂うはずだ。くすと思わず一笑すれば、彼は顎に手を置いて数瞬の思案を挟んだ後、淡く微笑んだ。


「悩むということは気づくということだろう。経験も確かに物を言うが、気づかなければ何も始まらないとも言う。何かに気付たのならば、それは君が成長している証だと、俺は思うが」


手垢のついた言葉で申し訳ないが、と山崎は目元を仄かに色づかせ、気まずげに視線を反らした。
――自分は自分だと思っていた自己認識が崩れてしまった。日月が隠してしまうばかりで、自分では気づけない、意味のわからない恐怖が増えていった。本当の"名前"がわからなくなっていく。もはやどう悩んでいいものかさえも悩みと化しているような状況の中で、気づけたことというならば、恐らく忘れてしまった記憶があるという事実だろう。新選組に身を置くより以前の記憶は、もう殆ど残っていなかった。何かを思い出そうと意識を沈めるたびに浮かぶのは、少年の背と、もう一人の"私"とでも言うべき春の声ばかりである。燃えるような葉の赤が、脳裏に焼き付いている。あの冬の小路で隊士を切り伏せた時の赤よりも、ぞっとするほど艶やかな赤が。


「…名前君」


はっと我に返れば、無意識に指が唇を弄っていた。乾いた皮が剥けたのか、指先に小さな皮膚片がくっついている。
山崎の伺うような視線に苦笑いを浮かべて、かさかさとした唇を湿らせた。


「だめですね、最近はどこでも考え込んじゃって。気をつけます」
「いや……そうだな、歩いているときは、やめておいた方が良さそうだ」


冗談めいた口調で笑った彼の意外性は、知っていたような気がする。
そうですね、と微苦笑を漏らせば、山崎はほんの一瞬間をおき、首をわずかに傾ける。


「…これから買い出しに行かなくてはならないんだが、少し荷物が多いんだ。もしよければ手伝ってくれないだろうか」


彼が俺に頼みごとをするとは珍しい。いや、どちらかといえばこれは気遣いの方である。巡察にも同行しているのだから隊士の誰かといれば問題はないのだろうが、頭によぎったのはその点ではない。
――今日は、沖田の巡察について廻る予定だった。日がな畳の上に座りすることもなく陽の昇る沈む様を眺めているばかりであった俺にとって、この敷地の外を歩くというのは魚にとって水のようなものだ。それを、彼は知っている。歩き終えた疲労感の行方が不満でないことくらい、知っている。


「…今日は、総司の巡察について行くつもりだったんです」


まっすぐに向かう瞳から逃げるように目を背ける。顔面に浮かんだ曖昧な笑みは、まるで張り付いたかのように動かない。次の言葉を探しては音を求めて薄く開いた唇を噛んだ。


「――留守番してますって、言っちゃったんですけど、どうしよう」


思い浮かべた言葉を飲み下した。彼に伝えるべき、ぶつけるべき言葉ではない。
山崎は小さく目蓋を上げて目元を緩めると、口元に手を置いて明後日の方を見た。細く切れ長の瞳が空を映し、瞬きを二度ほどすると徐に俺を視界に映す。思いついたと、声に出さずとも目が物語った。


「そのことなら、心配はなさそうだ。…気乗りしなければ無理にとは言わないが、」


心配りを知る。彼の選ぶ言葉は丸みを帯びていた。もし言葉が放つ色を見ることが出来るとすれば、それはあの無味な玉砂利を彩る色彩をもっていることだろう。
無意識に左手が心臓の辺りに触れた。衿から覗く鎖骨の間に爪を立てる。伝わるのは、一定の間隔で生を告げる音である。


「……いえ。お手伝い、させてください」


に、と漸く笑えれば、彼は頷いて礼を言った。


「沖田さんには、秘密だな」


その何とも言えない顔の歪みは彼らの思うところが互いに譲り合うことのできない関係だからである。たった数年の俺にはわからない信条の話である。彼は部屋で待っていてくれと告げると踵を返し、恐らくは土方の部屋であろう方向へと去っていった。
鼓膜の内側の雑音は、声も上げずに居座り続けていた。
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