未来はいつも
彼らが事あるごとに使うという茶屋の裏手で、女物の着物に身を包みいつの間にか背中ほどにまで伸びた髪を結わえられた俺は、店の女中に会釈をしながら入ってきた山崎を睨みあげた。いや、ただ見上げただけである。悪意は微塵もないだろう。
彼は正座するこちらを一瞥するとわずかに目蓋を上げてみせた。もしこの場に沖田がいたならば、馬子にも衣装だねと腹を抱えていうのだろう。慣れない紅を引かれたあとに手鏡を手渡されたが、そこにはどうにも不機嫌になりきれない崩れた自分の顔が映るばかりである。つい漏れそうになる溜息は、この格好――もはや女装とでも言ってしまおうか――に対する不満であって、これから街を歩くことに対してではない。
「驚いたな、着る物一つでここまで変わるとは」
「…確かに、これなら見つからないかもしれないですけど…」
「女性がいてくれたほうが、これから行く先で印象がいいんだ。すまないな、無理を言って」
よっこらせと立ち上がった俺を見て着物を着付けた女中の苦笑する声を聞いた。残念ながら、この時代の女性らしさというものは元から持ち合わせていない。着流しに比べて随分と歩きづらいもので、通りを歩く女性たちには頭が上がらない。なれない下駄に四苦八苦しながら漸く店を後にし、二、三歩先を歩く山崎の背を見やった。
「もうすぐ一年が終わりますね」
長い尾のような彼の髪が揺れ、引っ張られるように振り向いた目は俺の少し横を見ていた。
「そうだな、」
何か続きを言いかけて、彼は前に向き直す。心なし小さくなった歩幅は、今は自分に合わせてくれているのだろうと勝手に善意と受け取っておくことにした。
不自然に落ちた沈黙は多少の居心地の悪さを残し、俺はふらりと外へ視線を向けた。平屋家屋が連なり、通りには呉服屋や読めない文字が暖簾で踊る。線の太い上腕を惜しげもなく露出し、首にかける手ぬぐいで額を流れる汗を拭っている籠を運ぶ彼らの足は想像よりずっと遅かった。
――籠が視界を通り過ぎる。阻まれていた視界の先に、浅葱が揺れる。
「――烝君、」
「普通にしていればいい。今路地に曲がれば怪しまれかねない」
彼は仕事の一端としてここにいるから気にならないだろうが、一応、今日は巡察に同行する予定でいたのだ。送り出す血液ばかりが量を増し、酸欠になりそうだ。冷や汗でお粉が流れないように平静を保とうとはするけれど、浅葱色の集団がほぼ真横に来たとき、心臓が一瞬止まったような気がした。
「新選組だ。店を改めさせてもらう」
予想していた声より随分と落ち着いた静かな声音だ。耳元で笑うような軽やかさはない。
(斎藤さんか…よかった)
巡察は別経路で二つの組が分かれて行っている。ここに斎藤がいるということは、この先しばらくは沖田たちのいる二番組と鉢合わせることはないだろう。ほっと吐いた安堵の息を、前を歩いていた山崎は背中越しに小さく笑った。笑い事じゃないですよ、とかすれた声で訴えれば、その言葉をかき消すように下卑た声が通りの安穏とした空気をないだ。
「おいおいおい、道を開けやがれ! 勤王の志士様のお通りだ!」
体格のいい肩をいからせて歩く浪士は、周囲に刀と鋭い眼眸を見せつけながらこちらに向かって歩いていた。勤王とはすなわち尊皇の意であり、彼らのように勤王の志士と傲岸と掲げる者の中ではたしてどれだけが明確な意思を持ち合わせているだろうか。そういった不逞浪士を取り締まるのも新選組の仕事だと斎藤が話していたのはまだ記憶に新しい。
立ち止まり振り返った山崎の眉間には険しい皺が刻まれ、草履で砂利を踏み潰した。
「おら、邪魔だって言ってんだろ!」
通りの片隅でしゃがみこんで戯れていた子供を蹴散らそうと意気込んだ浪士に思わず右足を踏み込んだ。
「待ちなさい、君は女の子だろう」
「……しまった」
斎藤さんを呼んでくる、とすぐさま人並みに紛れた彼はきちんと現状を理解しているのだ。今は互いに一般人であり、山崎も不逞浪士数人を相手にできる撃剣家でなく、隠れ忍ぶ監察方だ。ひらりと揺れる袂が腹立たしかった。腰に触れても、そこにはなにもない。腰に下げる白刃は威嚇なのだ。身を守るすべであり、身を殺す諸刃である。
「止めなさいよ、みっともない」
「!」
小さな肩が子供を背に庇う。蹴れば折れてしまいそうな、それでも鋭い眼光は大の男でも数瞬躊躇してしまえるほどには強かだった。
当然のごとく青筋だった浪士はたかが女が、と嘲笑い、腰に手を置いた。
「止めてください!」
再びの第三者の乱入は、尚更俺の足を地面に縫い付けた。
「ああん、何だてめえは! この女の知り合いか」
いいえ、と関係性を否定した彼――いや、彼女に「すっこんでろ」といきり立つ浪士を見据え、少し固く強ばった声が通りで弾けた。
「あなたがお国のために尽くそうという高い志をお持ちなら、何故か弱い女子供に暴力を振るうのですか。町人を守ってこその侍でしょう!」
「そうだそうだ! いいぞ、兄ちゃん!」
「志士気取りの不良浪士め! 京からさっさと出て行け!」
俺の隣に並んでいた年若い町人が声を上げる。それに続けとばかりにちらほらと集まりかける野次馬が不満を晒した。馬鹿にしやがって、と喉の奥で絞り出されたような声とともに、彼の武骨な指先が柄に触れ、するりと刀身が剥き出しになる。
「ち、づる」
足首を圧迫していた冷たい手は解け、するりと体が前のめりになる。下駄の小気味いい音が足元で小さく音をたて、肘が伸びきる前に、黒と白の残像が間に割って入った。
「! ――うぐっ、う゛…き、さま……!」
「安心しろ、峰打ちだ」
「斎藤さん! …え、や、山崎さん!?」
どさりと白目をむいて倒れる浪士を後ろ手に、斎藤は後方の組員たちに指示を飛ばす。三番組の組員たちがほかの浪士を捕縛している間をすり抜けるように、山崎は足音も立てずに戻ってきた。
「大事にならないでよかった」
「無茶をするな。何故俺を呼ばない」
「そうよ、無茶なことしちゃって! あんなの、私一人でも大丈夫だったのに」
三人に挟まれるように――内一人を除いて、非難の声を浴びた彼女、千鶴はすみませんと縮こまった。無茶を責めているだけであって彼女の行動を非難しているわけではないのに、とついこぼれたため息混じりの笑いは、四人の外に居た人間としては不自然だった。つい、と向けられた多くの目に逃げ場を失い、彩り豊かな袖で顔を半分隠しながら山崎を見た。
「…もしかして、名前…くん?」
斎藤の見たことのないほど見開かれた両目が新鮮で、今すぐにでも脱ぎ捨てて帰ってしまいたい衝動にかられた。いや、それをすれば開放感も得られるだろうが人としての彼是が失われる。足元に穴があればいい。多少の痛みは我慢するのに、と思考が迷走し始めたあたりで山崎の助け舟がはいった。
「…諸用で、彼…彼女にもついて来てもらっていて」
彼の助け舟は、恐らくもろとも沈む船だ。確かに二人に隠す必要もないが、どちらかといえば名前ではない、という体の助け舟が欲しかった。もうだいぶ沈みかかっている。
「そ、それより…ほら、怪我はない?」
酷い苦味が喉を通る。
千鶴は大丈夫と柔らかな笑みを浮かべていた。奥歯が噛み合わずに嫌な音を立てた。
「そういえば、私あなたに助けてもらったのに、まだお礼を言ってなかったわ。ありがとう」
「い、いいえ! そんな…」
「ふふ、これもなにかの縁ですもの、よければ名前を教えてくれる?」
細く長い指を交差して唇に当てる彼女の笑みは外見にそぐわず大人びている。町人という雰囲気ではなくむしろ城主の娘とでも言われる方が納得のいく彼女の纏うそれは、拒否という感覚を根こそぎ奪っていってしまえるものがある。名前を聞かれることに拒む理由もないが。
千鶴が斎藤を見やれば、彼女はもう知っていると笑って答えた。新選組の幹部組の名は、良くも悪くも有名らしい。それでもちらと山崎を見たということは、知らないということだろう。――監察方の人間の素性が知れているとあれば一大事である。千鶴の紹介を自然にやんわりと遮り、山崎は町医者をしていると目を細めて言った。
「斬った張ったでよく怪我をしますからね、みんな」
「…もう少し自分の体に気を遣ってくれるといいのだが」
「それはきっと無茶な話ですよ、ねえ斎藤さん」
今のは本音だろう。くすくすと笑いながら斎藤を見れば少し視線を逸らしていたので、自覚がないわけではないようだ。松本に病の見本市と叱られたばかりである。
お医者様も大変ですねと言った彼女には、この先真実を知る必要も機会もないのだ。
「…あなたは?」
「え、お…私?」
この場にいればごく自然な流れだ。名前です、と我知らず苦笑すればじっと見つめられた。彼女の大きな瞳に映る自身の姿が見えそうなほどである。
「…いえ、ごめんなさい。どうして君なのかしらと思って。男性じゃないものね」
「…癖、みたいなものですよ。きっと」
ね、と同意を求めれば案の定崩れた顔をしている千鶴に、彼女はそうなのと一言で話を終わらせた。察しはいい、というよりも違うと気づかない方が鈍感である。千鶴が姓名を揃えて言った瞬間、変化を気づかれまいと多くなった瞬きに気付けるかどうかは、俺のような偶然と、職業病の二人だけだろうが。
「私は千、千って呼んで。宜しくね、千鶴ちゃん、名前ちゃん」
千鶴の動きが一瞬にして凍ったのを、事情を知るこちらとしては微笑む他にどうしようもなかった。やはり誰がどう見ても女子にしか見えないのだから、掘り返せば藤堂と永倉は本当に――以下略、である。
「…あら、まずかったかしら…?」
「仕方ないですよ、可愛いから」
「か、からかわないでください…っ」
「ほら、そういうとことか」
あははとつい声を上げて笑えば紅潮した頬で睨みつけられた。最早凄みもないということはそっと胸中に仕舞っておくことにする。
「ふふ。…もっとお話したかったけれど、もう行かないと。それじゃあ、また会いましょうね」
ひらひらと手を振る彼女を見えなくなるまで目で追い、それから斎藤と千鶴は本隊へと戻っていった。日が暮れるのも最近は早いもので、日差しは既に橙色を帯びていた。
「…急いで諸用とやらを済ませないと、何してたんだって怒られそうですね」
急いでも平気かと向けられた心遣いに勿論と返せば、彼は懐から紙切れを取り出して最短距離で行く算段を説明し始めた。着流しでいたほうが量を持てるのにと思ったことは、その後向かった紙問屋の店主のおかげで納得せざるを得なかった。山崎に頼まれなければ即刻逃げていたところである。申し訳ないが次の機会は誰かが女装していく方法をすすめよう。千鶴を行かせるなんて以ての外だ。
門限は何時だっただろうかと気になるほどには後ろに続く影が伸び、屯所は遠い。一度茶屋を経由し、漸く身軽となった身で足は先程より軽いがそれは物理的な話である。雁の群れを遠目で見上げ、屋根瓦の淵に触れそうな夕日に目を細めた。ひときわ眩しい橙の粒に目を惹かれ足元を疎かにすれば、山崎から忠告を受けた途端にお決まりのごとくもつれた。何をしてるんだ君はと呆れ声で言われるのが悔しくて、久しぶりに転んでみたかっただけですと言えば言葉を詰まらせてしまったらしい。責める気持ちは一切なかったのだけれど、言葉とは難しいものだ。
気まずくなった空気を打破しようと今日の夕餉はなんですかねと小さな子供のような話題を振れば、藤堂さんと原田さんが担当だったなと微笑ってくれたのであとでおかずの一品でも献上しようと思う。しかし米は固いに限るので差し引き零というところだろうか。
ただいまが先走る。おかえりが恋しくて足は無意識に歩幅を広げていた。そんなに急がなくともまだ間に合うぞと可笑しそうに少しだけ表情を崩した彼に、どうしようもなく切なくなった。帰る場所は、あの場所でいいのだと、暗に告げられたような気がした。
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