来はいつも

揺れる薄雲鼠色の水面 1 / 3


山崎との買い出しを終えたあと、暫くも経たないうちに夕餉の準備に呼ばれた。各々が慣れた席に腰を落ち着けたのを見計らい、膳に米びつからよそった温かな米茶碗を置く。全員が――といっても例のごとく伊東はいない――揃ったところで、永倉が恒例の争奪戦を開始した。早々におかずを一品取られながらも藤堂の機嫌が何故か良かったので、原田と不気味だなんだと顔を見合わせていれば、彼はまだ手をつけていなかった俺の茶碗を指さしてとにかく食ってみろと笑ってみせた。


「……、やらかくない…!」


毎度水気を多分に含み、柔らかすぎてお粥を通り越しておもゆのようだ批評を受けていた彼の炊く米が、今日は奥歯で噛む弾力を持っている。そうだろう、とあどけない笑みで胸を張る彼に思わず顔を緩めて「まあまあだね」とお決まりの台詞を告げておいた。なんだよそれと気の抜けた声が永倉の笑いを誘う。彼が笑えば原田も笑い、藤堂がいつも茶化されるのだ。三馬鹿などと誰が呼んだか知らないけれど、三人が揃えば、鬱々とした空気が晴れていくような気さえする。現状に変わりはないからこそ、その声ばかりが俺にとっては寄る辺に思えた。
笑い声がひっそりと響く。ぽつりぽつりと会話があるのに、それ以上に外の静けさに反響音が吸い込まれているかのようだ。


(…苦いな)


ほうれん草の根に近い白を奥歯で押しつぶす。喉を通る味噌汁の鰹節の香りが鼻腔に広がる。舌の付け根で、なにかの苦味だけがへばりついて消えない。ごくりと飲み込んだ腹の奥で、じりじりと溶けては食道を焼く気体をもう一度飲み込んだ。



夕餉の集まりも散り散りに、膳の片付けを千鶴と二人で終わらせ、暗い廊下を並んで歩く。話の話題と、いつものように巡察の様子を千鶴が話していれば、自然とそれは昼の話に遡ることになる。お千ちゃんかあ、と同じ年頃の同性に巡り会えたからか少し楽しそうにつぶやく彼女は、また会えるかなと笑っていた。予感という不確かなはずの感覚が、何故か絶対そうだと告げている。また会える気がするね、とそれは気などと曖昧なものではなく、千鶴もなんとなくそう思っているようだ。


「……そういえば、名前君」


ぎくりと嫌な予感がする。思わず周りを見渡してから彼女の話に耳を傾けようとしたことは誰に対しての他意などなく、少しばかり歪んだ微笑みを浮かべた。


「……昼間の話は、本当、誰にも言わないで…沖田さんにだけは……!」


顔の前で手を合わせてお願いするほどに大事なことである。大抵こういう話をすると何故か本人が近くにいたりするのだから冷や汗が止まらない。幸いにして後ろからぬらりと出てくることはないようで、もう一度視線を泳がせてから千鶴を見た。あの沖田は本当に神出鬼没過ぎてかなわない。毎度どこから聞きつけどうやって背後に立っているのだろうか。ここに来てからというもの日に日に気配というものに敏くなっているはずなのに、彼はまるで霧か雲のようだ。いや靄や煙でもいい。とにかく、折角の山崎の厚意もなきものにしたくはない。
千鶴は苦笑いを浮かべながらこくりと頷いた。

それからややしばらく廊下で雑談をした後、各々の部屋へ踵を返した。昼間の寒さはまだまだ大したことはないが、夜ともなれば足先から冷えてくる。もうすぐ冬になるのか、と移ろう季節が曖昧で独り言ち、縁側で足を止めた。青白い光が北集会所の屋根瓦を静かに照らし、無音の空気を夜気で冷やす。吐く息こそ白くはないが、それもあと少しだろう。早いものだな、と山崎の声が聞こえてきたような気がして、人知れず笑みがこぼれた。
原田が監視の仕事を放り投げて挙句山崎が隠れていることも告げてしまったのが始まりだったと思い返せば年寄り臭くなり、気分も相まってよいこらせと掛け声を上げて腰を下ろした。烝君と無理を言って呼ばせてもらったのはなつかしい。あの頃を端的に表すならば若気の至りである。今はもうそんな若さも勇気も無謀さも持ち合わせてはいまい。


「…いまも、見張りってしてるのかな…」


日がな一日眠りこけていたあの頃の自分を監視などして、さしたる暇つぶしにもならなかったことだろう。ぼんやりといつの頃かも怪しい記憶を掘り返しては、どうせ誰も通らないとタカをくくって独り言も表情も隠すことなく笑った。こんなにも、覚えているものなのか。ふいに広がる苦渋に目元が歪む。腹の奥に溜まっていた息を吐いた。


「何一人で百面相してるのさ」
「……もう、なにも驚かない」


足音もなく、声だけが突然現れる。情けなくどきりとした心臓に気づかないふりをして、振り返るまでに数拍の間を置いた。いつもならば何かしらが続く言葉が、その一言で今日は途切れている。そう感じればあとは思い当たってしまう昼間のできごとに、聞こえずとも言葉のない視線を受けているようで振り返れなかった。錆び付いた蝶番が軋む音に似たそれが首元から発せられているように、ひどくぎこちない動作で後ろを見る。壁にもたれて腕を組む沖田は、腰から上を庇の影に覆われて表情は見えづらかった。


「……」


怒っているかと、問いかけるような真似はしない。しかし、このままでは喉が渇いて声も出せなくなりそうだ。冷ややかな視線が突き刺さり、どれだけ沈黙が続いたのだろうか、彼はようやく低い声を吐いた。


「…山崎君がいいなら、早く言ってくれればよかったのに」


ああ、ほら、声が出ない。
言葉を言いかける唇が無意味な開閉を繰り返して、右手がそれを上から覆い隠す。そう一言告げたきり、彼はふたたび口を閉ざし、現れた時とは真逆に足音を軋ませながら暗闇に消えていってしまった。
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