未来はいつも
どたどたと騒がしい足音を立てて歩いていたからか、それともこの感情がにじみ出てしまっていたのかは知らないが、廊下を通り過ぎる隊士達が一様に距離を置いていくのに気付きながらも、腹の奥底で溜まる何かを消してしまえることは適わなかった。
「――総司」
背後で不意に呼び止められたその声が、今はひどく煩わしい。
「そんなに感情を顕にしては隊士が怯える。何があった」
細い息を吐いてから振り返れば、そこには夜の暗さに浮かぶ白の襟巻きに顎を埋める斎藤の姿があった。うるさいなあ、と噛み合せた奥歯から漏れ出そうになった言葉を飲み下し、睨むように鋭くなった目線だけ彼を捉えた後、何も言わずに踵を返して自室への道を辿る。背を向けた沖田に、斎藤はそれ以上言葉を重ねてこなかった。
気持ちが悪い。
布団も敷かずにそのまま畳に寝転んだ。古びたい草の香りが鼻腔を掠める。ただ深く二度三度と呼吸を繰り返すたびに、熱を帯びていた脳内が落ち着いていくような、反対にぐつぐつと煮えたぎるような、そんな心地に無意識にため息がこぼれた。
――巡察の途中だった。彼女が同行していようとなかろうと、その日の予定に支障はなく、決められた道を斎藤と二手に分かれて見回っていた。町民の視線が気にならないといえば嘘にはなるが、それは仕方がなく、どちらかといえばそこに関心はない。今日は巡察の前に名前とやり取りをしていたせいか彼女のことを何となく考えていた。沖田が何を考えようが意味のないものとは知ってはいたが、山南のことを考えるとあれこれと思わざるを得なかったのだ。最近は面倒事ばかりだと我知らず握っていた襟元を離し、町民や商人等で賑わう大通りを見渡した。ふとに視界に入ったのは、鮮やかな着物を着る女だった。町民といった出で立ちであったから、鮮やかな着物と表現するには違和感が残るが、そう感じたのは今考えてもよくはわからない。ただすれ違う人間の中で彼女を見つけたのだからなにか目に付くものがあったのだろう。その女の少し前を歩く背中は見覚えがあり、萌黄の着物に後ろで束ねる細く長い茶色の髪は、いやでもあの監察方の彼を思い起こさせた。時折男が振り返り会話をしている様子を横目見て、立ち止まりそうになった足を辛うじて前へと歩き進めた。
――やはり男は監察方の山崎で、その女といえば着物と化粧ではっきりと判断できないが名前ではないだろうか。というよりも山崎が連れて歩くというからには千鶴は斎藤の方に同行しているので、必然的に名前しかいなくなる。もちろんそういった類が彼にいるのであれば別だが、生憎知らないし知ろうとも思わない。どうかしましたかとかけられた声にようやくそれほどまでに凝視していたことに気づき、何でもないよと返す言葉がたどたどしかった。そして、少しばかり目を離した隙に、二人は人混みに紛れて見えなくなってしまっていた。
ただそれだけだ。巡察に同行するのは絶対ではなく、もしものことを考えると綱道探しで連れる千鶴も足手まといだ。だから、名前が同行しないならばそれは別段構わないというのに。
奥底で沈むこの感覚を知らないわけではない。だからこそ、苛立つ。ひどく腹立たしい。馬鹿馬鹿しいと呟いてしまえることは簡単なのにも拘らず、唇から漏れるのはため息だ。斎藤に吐き捨てかけた言葉をもしあの時言っていたならば、それはただ己に自覚を促すばかりになる。
く、と思わず喉の奥で笑う。ずぐりと訪れた胸の痛みに奥歯を噛む。それから続く咳が喉を焼くたびに、ぐしゃりと前髪をかきあげた。
――馬鹿馬鹿しい。
そう思えば、楽になれるのかもしれない。
夜も更けた頃に彼女はうなだれながら帰ってきた。気分が塞ぎ込んでいることは最近珍しいことでもなく、その光景も見慣れたくはないが目の色を変えるほどではなかった。
布団を敷いて寝転がっていた原田からすれば見上げる形となった名前は、お休みという一単語をようやくといった様子で辛うじて呟いたあと布団に潜り込んでしまった。どうした、と努めて優しい声音で問いかければ、彼女はぼそりとなんでもないよと答えて頭から夜着を被ってそれきり身動きさえしない。原田としても寝不足は明日に堪えるので避けたいのだが、隣人がこれでは熟睡もはばかれる。妙に覚めた頭でどうしたものかと腕を組んで考えていれば、微動だにしなかった彼女が突然がばりと起き上がった。暗闇に慣れた両目で、その唇が情けないほどゆがんでいるのが分かる。左之さん、とこれまた笑えるほどか細い声が名前を呼ぶ。迷わせた目線が、自身の太ももに置く両手を映した。
「どうしよう」
名前の戸惑う声が、今までの漠然としたものに対する不安からではないような気がして、むくりと起き上がって彼女を見た。
「どうしたんだ?」
「……おれ、そんなつもりじゃなくって、」
わなわなと震える唇が言葉を探すから、音が聞こえるまでただ待った。
「……あ、謝んなきゃ、だよね」
「――よくわかんねえけど、謝らないといけない理由はわかってんのか?」
言いたくないのか、どうしようという割にはとくに何も話さない名前に何を言うこともできずに、とりあえず謝らないととその一心に駆られる言葉を引き止める。中身の伴わない謝罪ほど無意味で腹立たしいものはないだろう。相手が誰なのか皆目見当もつかない――というわけではないが断定はしかねる――ので、そう問いかけてみれば少しの間を置いて頷いた。多分、と付け足された言葉は頼りなく、再び唇がへの字に歪む。確かに、怒られる理由は本人に聞かなければわからないこともあるが、その理由が理不尽なものである場合がないわけではない。どちらにせよ少なからず自分が悪いのだとは感じているような雰囲気ではあるので、全く思い当たる節がないというわけではないようだ。
ぐしゃりと畳に潰れる名前は枕元にあった羽織をかき抱いて、暫く無言になる。どこからかみみずくの虚しい声が聞こえてきて、原田はがしがしと肩に流れる髪ごと後頭部を掻いた。
「どうした、寝たか?」
「……左之さん」
「ん?」
「部屋から出たくない…」
ふらりと上体を起き上がらせ、まるまるように自分の布団へと戻っていった彼女は枕に鼻っ面を押し当てて呼吸ばかりを繰り返していた。それ以上本当に何も喋らなくなった彼女がひどく子供じみて見えて、ついもれた笑い声が部屋に響く。足元でしわくちゃになった夜着を首元までかぶせて、それから幼い子供をあやすように頭を撫で回す。ぶふ、と不抜けた声が下から聞こえたが、そんなものは聞こえないふりをした。
「また明日な」
最後に背中を軽く叩いて、布団に横になる。安心した、と言っていいものなのだろうか。とくにここ数ヶ月は常にどこか暗い影を引き連れて歩いているようなもので、陰鬱とした新選組に飲まれてしまいそうな気配だったのだ。
――もう、疾うに自覚はしている。年をとったなと、我知らず苦笑いが口角を歪めた。
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