未来はいつも
昼間の巡察組の帰りが遅かった。いつもならば冬の夕暮れ時には戻ってくる足音も静かで、部屋は一段と冷え込んでいた。稽古に参加した後、張り付く汗が尚更気分を苛立たせたので簡単に湯浴みを済ませ、夕餉の支度に取り掛かろうと廊下をぺたぺたと歩いていた時である。夕闇は迫り、空の向こうから濃紺が蝕んできていた。
「土方副長は――!」
「だれか、山崎さんを――!」
ばたばたと忙しない足音が乱雑に開けられた引き戸の音と共に飛び込んできた。ひやりと冷たい風がうなじをすべる。脳裏にふいに、山南がよぎった。
「……っ」
くるりと踵を返す。細かな足音の中にまぎれる覚束無いそれは恐らく怪我人だ。北集会所に運ばれなかったということは、原田か、それとも――。台所とは反対側に位置する玄関へとほぼ無意識に近く駆けていた。京の町を巡回するのだから、最悪斬り合いになることだってわかっていた。わかって、俺も千鶴も同行している。刀を、腰にぶら下げている。それは相手も同じで、明らかな殺意をもって刀を抜くのだ。必ず戻ってくる保証など、どこにもない。
騒然とする声が近づく。山崎の声が騒めく声に紛れて一際響いていた。ばっと角から勢いよく飛び出せば、丁度山崎と目があった。鋭い眼光が、俺を射抜く。
「名前君、すまないが雪村君を呼んでくれ! それと、湯を沸かして晒しを!」
「っ、!」
原田の赤い髪の奥で、茶色が揺れる。群れる人盛りの足元に、息を飲んだ。
――血だ。まだ身体から溢れたばかりの、生温くて鮮やかな、血だ。崩れそうになった足を、山崎がもう一度呼びかけることでなんとか動かした。台所に、戻って。湯を、沸かして。それから、それから、千鶴を――。まるで何時間と歩き続けた足のように、重石を引きずるように、ぬかるんだ泥道を歩くように、ひどく、重い。
玄関からそう離れていない場所で、騒ぎを聞きつけた千鶴と鉢合わせた。俺が斬られたわけでもないのに、身体から血の気が引いていくようだ。
「なにがあったの!?」
「総司が、怪我をしたらしくて、湯と、晒しを。山崎さんが、千鶴にも手伝ってほしいって」
ぶつぶつと細切れになった言葉を拾い上げた彼女は、頷いて晒しをとってくると急ぎこの場を離れていった。一人になった途端、またどうすればいいのかわからなくなりそうになる。山南が頭によぎるたびに、首が締め付けられるように息苦しい。げほ、とたまらずに噎せた咳に歯噛みして、台所で夕餉の準備をしていた斎藤の元に走り寄った。事のあらましを手短に伝えて熱い湯を桶に移し、また道を戻ろうとした俺の肩を掴んで、煮沸した湯に焼酎の入った徳利を突っ込んで少し待てと呼び止められた。消毒をするのだろうと、手拭いで摘まみ上げた徳利を俺の持つ桶に浸して、早く行けと今度は背を押された。大丈夫だと囁かれた言葉が、平静を取り戻させる。はい、と答えた声は、思っていたよりも震えていた。
恐らく皆沖田の自室にいるはずだ。跳ねた湯が腕にかかって思わず手を離しそうになりながら、波のように五月蝿く耳元で響く声をすり抜けて部屋の中に飛び込む勢いで半開きの襖から身を滑り込ませた。七輪を焚きながら部屋を暖める原田と、止血する山崎。そして、横たわる顔に生唾を飲み込む。
「傷はさして深くない。松本先生をお呼びしているから、半刻程で着くだろう」
「そ、う」
「――ありがとう、そこに置いてもらってもいいか」
「あ、あと、斎藤さんが、消毒にと、焼酎を」
辿たどしい言葉に山崎が一瞬瞼をわずかに押し上げた。助かる、と言葉少なにそう呟いて、熱湯に沈む徳利を掴んだ。
山崎の背後から覗き込むように沖田を見やる。蝋燭の頼りない灯りでは顔色など悪いようにしか見えないが、山崎の表情を見るに、命には別状ないようだ。それでも、固く閉ざされた双眸が、薄く開いた唇が、忘れたはずの何かを呼び起こす。心臓が小さく軋みを上げた。
「名前」
火の番をしていた彼がちょいちょいと手をこまねいている。呼ばれるままに立ち膝で近寄り、どうしたのと声に出せずに目で問えば、彼は淡く微笑んでその大きな手のひらを頭に乗せると適当にぐりぐりと撫で回した。
「大丈夫だよ、安心して斎藤の手伝いに行ってやれ。総司もそのうち目が覚めるだろうからよ」
医の心得がある千鶴ならまだしも、俺は到底役に立ちそうにはない。原田を見上げて、それから沖田を見る。言いかけた言葉を飲み込んで、黙って頷いて部屋を後にした。
途中ですれ違った千鶴は晒しと薬箱を抱えていた。俺はその後ろ姿を見送って、先程とは一変して静かになった廊下で立ち止まって目を瞑る。早く斎藤の手伝いに行かないと。その約束であったけれど、彼はきっと手際がいいからなんとかなっているだろうなと後ろで声が聞こえた。
血の臭いが鼻を衝く。玄関にふらりと立ち寄れば、誰が拭いたのか落としきれなかった赤い跡が筋を引いている。しゃがみこんでその筋に指を添えれば、まだ温かいような気がした。ぱたりと、我知らずにこぼれた雫が乾いた血を湿らせる。今度こそ生きていてよかったねと安堵する声に、違和感を覚えた。
目尻が熱い。滲む視界をごしごしと袖でぬぐい去って、雑巾と水桶を取りに歩き始めた。気づけば、空は墨で塗りたくったように暗かった。
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