来はいつも

遠い赭色を閉じ込めた 3 / 3


松本の治療を終えてちらほらと顔を出していた幹部が揃った頃には、膳に装ったものはほとんど冷めてしまっていた。暫くすれば目が覚めるだろうと残して帰った松本の言葉に、通夜のように静まっていた席が彩を取り戻す。原田と土方、近藤は席を外してはいるが、千鶴も戻ってきているので本当に大事はないようだ。


「あの総司が斬られて帰ってくるとはな…」
「町民を庇ったって、一番組の奴に聞いたぜ?」
「庇ったァ? ……それこそ、おかしな話だろ」


藤堂の言葉に永倉が眉根を寄せて持っていた茶碗を置いた。一瞬何やらを考えた素振りをしたあと、腕を組んで藤堂を見る。


「……相手は長州だろ、朝廷側が多いのに手ぇ出すか?」
「まあ、いないわけじゃねえだろうし。こないだの一君だって、勤王の志士ーとか言って町民に手を出してたの捕まえてきたんだろ?」
「ありゃただの不逞浪士だろうが」


斎藤が答えるまでもなく藤堂の言葉を両断した彼は、再び箸をとって茄子の煮浸しを口に突っ込んだ。


「まあ、なんにせよ、無事ならそれでいいんだけどな」
「そりゃあ、そうだけど。結局その相手ってどうなったわけ?」
「総司がその場で斬り捨てたよ」
「左之」


ふいに開かれた襖の先には原田一人がおり、彼はそのまま俺の隣に腰を下ろすと一番に味噌汁を喉に流し込んだ。喉が渇いているのなら、尚更渇きそうだ。案の定、顔を顰めた原田は椀を置いて胡座の上に肘を突いて手のひらに頬をのせる。


「俺も別周りで巡察してたから見てはいねえけどな」
「ここんとこちょっと調子悪そうだったし」
「そういやあ、風邪とか言ってたか? 鍛え方が足りねえんじゃねえか」
「新八っつぁんは風邪が逃げてくよな!」


それきり沖田の話題は出てこなかったが、斎藤だけが異様に無言を貫いていたような気がして、少しだけ胸騒ぎがした。杞憂であればいいと、俺が思うのも嗤えて、椀に残る味噌汁を流し込めばひどく塩辛くて思わず噎せた。



蝋燭を吹き消して原田が寝入ってからどれほどが経っただろう。床にこびりつく血が頭から離れずに、妙に冴えてしまった頭は眠る事を拒んでいるようにも思えた。このまま床に就いていても無意味な気がして、隣人を起こさないようにそうっと部屋を後にした。
縁側から月を見上げればそこそこに傾いている。冬であることを考えても、明け方まで二刻ないか、そのくらいだろう。鋭い夜の空気は肺を貫いて、つきりと痛んだ。気の向くまま考えなしに廊下をふらふらと歩いていれば、水桶を手にした山崎とすれ違った。互いにひどく驚いたまま数瞬立ち止まっていれば、彼は表情を緩めてどうしたんだと首を傾げる。なんとなく、と曖昧に答えれば山崎は心なしか充血した目を細めて微笑んだ。


「……熱でも?」
「ああ、少しだけだが。浅くとも刀傷だからな、明日明後日には下がるだろう」
「俺もお手伝いします。…戻っても、寝付けないから」


いや、と柔らかく首を横に振った山崎に申し訳なさを感じるのは自己満足である。少しだけ距離を詰めて、廊下の先にある沖田の自室をみやった。


「なら仮眠を取ってください。俺はさっき寝てましたから、代わります。様子がおかしかったら呼びに行きますよ」


暫く言葉を詰まらせた山崎は、それから水桶を俺に寄越して目を細めた。


「……すまない。任せてもいいだろうか」
「はい。おやすみなさい」


監察方は徹夜が多くて大変なのだと、いつだかに原田が言っていたのを思い出す。廊下を歩く背を眺めながら、俺も沖田の部屋へと向かった。

薬草の匂いだ。池田屋の時もそうだったが、刀傷は止血薬と生薬七種ほどをすり潰してごま油に浸した薬湿布が効くのだそうだ。その匂いが襖を開けた瞬間に鼻腔に広がる。後ろ手に静かに襖を閉めれば、尚更匂いが濃くなったような気がした。少しばかり呼吸の荒い沖田を見下ろし、脇に腰を下ろす。冬の水は凍るように冷たく、固く絞ったはずの手拭いはまだ多分に水気を含んでいた。もう一度固く絞る。俺の時は夏であったから、さぞ皆蒸し暑かっただろう。誰かの立場に立ってようやくひとつ気持ちを知る。心配りを知る。優しさを、知る。
額に指先を当てれば、それだけでも常人より温かいとわかる。予備にあった手拭いをもう数枚浸して、首元と額にのせた。
――誰かの役に立ちたいと思う。親しくなりたいと思う場所の重荷にはなりたくはない。
ぎゅうと、力を込めるほど指先は擦れる。もう温くなった首元のそれを取り替えて、水桶の中に沈めた。揺れる水面にうっすらと顔が浮かぶ。そっと首筋に触れれば、ざらりとした感触に目を瞑った。見ないふりを、気づかないふりを。いつまでし続ければ、なかったことになるのだろう。そうしていいわけがないと気づいているのに、それ以外の方法を知らない。ふうと小さく吐いたため息を隠すように、もう一枚手ぬぐいを水にくぐらせる。

山崎と代わるまで、目は覚めないでいてほしい。嘘だ。本当は、今のままでは居心地が悪い。けれど、話す言葉が宙に浮く。何を話せばいいのかわからなくなる。何も話さなくていいのではないかと声が聞こえる。唇はその度に、縫い合わさってしまう。そうしてひと月過ぎたのだ。こうして、また日が過ぎていくのだろうか。
固く閉ざされた目を見る。なんともない、すぐに目は覚ますとわかっているのに、このまま目覚めないような。それは、ただ今だけの予感なのだろうか。それとも既視感なのだろうか。噛み締めた唇が震えていたのは、何に対してだろう。


「……、ぅ」


取りこぼしそうになった手拭いを膝の上に、それから身が強張るのを感じた。指先が手ぬぐいを握り締めるたびに、手の甲に冷たい雫が流れる。


「……そ、うじ?」


ぴくりと震えた瞼が、ゆるゆるとあげられる。蝋燭の灯りのいたずらが、彼の瞳を黄色に近い色に見せた。心臓が締め付けられる。呼吸が、止まる。


「……、っ」


かすれた声。彷徨っていた視線が、ゆっくりとこちらを映して眠るような瞬きを一度する。
痛みは、傷は大丈夫? 急に担ぎ込まれてきたから皆驚いたよ――。
頭の中で浮かんでは消える言葉が声に出ることはなく、生唾ばかりを飲み込んだ。彼は布団の中で一度傷口を確かめたようで、小さく呻いて息を吐いた。


「……逆だね」


くっと笑った彼は目を閉じて、もう一度俺を見た。角度を変えて色を変え、翡翠の瞳が射抜く。


「いつもは、けが人は君の方だ」


げほとひとつ咳をすると起き上がろうとするものだから、咄嗟に肩を押してそれを止める。言葉はやはり、出なかった。


「……はあ、」


ため息が鼓膜を揺さぶる。ことさら強く力んだ指先から滴る水滴が、膝を濡らす。夜気が突き刺さる。からからに渇いた喉が、ひゅうと息を吸い込んだ。


「……ごめん、なさい」


目を見ることが出来なくて、ただ俯くばかりだった。


「そういうんじゃ、ない。そういうつもりじゃ、なくて」


手の甲を映す視界が歪みそうになるから急いで目を瞑った。情けない。何故泣きたくなるのかもわからない。どうして、こんなにも胸が痛いんだろう。


「……なんで、君が謝るのさ」


傷が痛むのだろう、言葉の節々に息を吐く棘がある。彼の視線が、今何処を向いているのかも知れない。伏せた両目はつつつと布団の端のほうに動く。目は、合わせられない。


「……自分が、その…巡察を断って、しまったし」
「それって、実はすごく、自意識過剰みたい」
「っ総司が、ああやって、怒ったから…!」


合わせまいと思っていたのに、笑う声に弾かれて思わず顔を上げれば、彼はどこも見てなどいなかった。


「うん、ごめん。ただの僕のわがままだった」
「え、」
「行く行かないは、君の意思だし、山崎くんのことだって、八つ当たりみたいなもの、だったから」


少し気だるそうにいう沖田の手ぬぐいは、今頃気持ちが悪いほど生ぬるくなってしまっているはずだ。げほげほ、と咳をする彼は身体に力を入れるたび、傷の痛みに漏れる声を噛み殺している。話すことは辛いだろうに、彼は一向に俺を見ずに、言葉を繋げる。対して、先程まで合わせられなかった俺の目は、彼から離せないでいた。


「だから、君の行動に、怒ってたわけじゃ、ないんだ」
「そ、う――」
「ごめん、山崎君、呼んで、くれる?」


――心臓が止まる。全身を巡っていた血液がどろどろと滞っていく。完全に向こう側に向けられた顔に、かける言葉も見つからなかった。氷のように硬い足が感触もない畳の上を滑り、そうして後ろ手に閉めた左手には握り締めていた手拭いをそのままに、指先だけがその温度を置いてきている。早く、呼びに行かないと。そう思ってはいるのに、一歩も前に進めない。どうしても、息がうまく吸えない。爪を立てるように壁に手をついてようやく歩き始めて最初の角で、かくりと膝が笑った。
馬鹿馬鹿しい。そう誰かが笑ってくれれば、これがなんなのか気づかずにすんだのに。
呟きかけた言葉が、小さな笑い声に変わった。

遠い色を閉じ込めた

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