来はいつも

痛みは向日葵色の笑顔を消して 1 / 3


天皇が崩御した、と真剣な面持ちで話を始めた永倉は珍しく箸を休ませながら夕餉をとっていた。新選組で恐らく一番に政治面に敏い彼がこうも渋い顔をしているのだから、時勢を詳しくは知らずとも、もうこの時代の終わりに近づいてきたのかと思えた。まるで他人事のように思うことはよくないのだろうか。そうであったとしても、何をすれば地に足をつく感覚が得られるのかがわからない。ここは、自分というものの外側は、いつまでも”外側”のままだ。

冬も過ぎて穏やかな日差しが多くなっていた。屯所内の桜が咲く頃には、沖田の傷も塞がり、伊東の動きに眉を潜ませる具合が多くなった。ピリピリと時折肌を刺すような殺気が立ち込め、巡察から隊士たちが戻ってくるたびに羽織には泥や血が目立つ。捕縛される浪士の数も、少しずつ増えてきていた。
そんな日の夜である。眠れない日など最早当たり前のようにあり、それでも幸いにして隈が出来にくい体質なのか、それを悟られることはなかった。
――変化がこわいと思う。藤堂が江戸から戻ってきた折に見せたあの雰囲気の違和感が、彼だけではなく全体に広がりつつある。まるで靄のように、音もなく吸いこむ呼吸に紛れて変質させていくように。響く怒声の多さは、皆の気が不安定な証拠だろう。俺がそう感じているだけかもしれないけれど。


「……ふう」


三ヶ月だ。沖田が怪我をして帰ってきてから、三ヶ月が経った。あれ以来、巡察にいく回数が減っているのは気のせいではない。奇妙な咳が続いているから、と以前土方から休養命令が下されたことも相まって、病人、といった類の無意識か暗黙の了解か、そんな空気が漂っている。松本が度々訪れていることに、気づいていない幹部は少ないだろう。原田も、気づいている。だからこそ、無言の視線を時折投げてくるのだ。言葉にされないことに甘え、現状維持が続いている。いや、もしかしたらとうにゆるゆると下がっているのかもしれない。冷ややかな空気は、日に日に無関心さを増している。あとどれだけ、ただいまもおかえりも繰り返せるかもわからないのに。
ぺたりぺたりと縁側を歩いていた足を止める。ふと見上げれば細い幹から伸びる枝に薄紅の花びらを身にまとうそれが、月明かりに照らされて青白く反射していた。ひらひらと足元に積もるのは雪のようで、頭の中が新雪に埋もれたように真白くなっていく気がした。
感覚が遠のいていく意識を引き止める。馬鹿馬鹿しい。口癖になった台詞を、ぽつりと吐き捨てた。


ドガン!


不意打ちに鳴り響いた大きな音が、無防備だった肩を震わせる。どきどきと早まった心臓を押さえつけて、音のした方を見やり小走りで廊下を抜ける。それきり聞こえなくなった音に、思わず誰かの寝相かと呆れた考えも浮かんだけれど、それは次に続いた悲鳴で打ち消された。
高い声だ。男の声であるはずがない。短く切れた悲鳴に頭の中で彼女を思い浮かべる。女ならば一人しかいない。乱暴になる足音も気にせずにその部屋へと向かえば、予想だにしていなかったものが目に飛び込んできた。


「ら、せつ…!?」
「ひひひ、ひひ…血を……血を」


白刃から赤が溢れる。蝋燭の灯りもないため見にくいが、紛れもなく床に座り込んでいるのは千鶴だ。肩口を押さえたその姿が目に飛び込んできたとき、自身の腰を殴りつけた。こういう時に限って刀がない。くそ、と悪態を吐いたあと、千鶴に近寄る羅刹の脇腹に蹴りを決め込む。畳に滴った血液に目がいっていた彼はくぐもった声を上げてそれを食らうと、派手な音を立てて転げ落ちた。名前君、とか細い声が名を呼ぶので、尚更眉間に皺が寄る。刀がなければ羅刹の動きを止めることもままならない。早く逃げよう、と千鶴の腕を掴み立ち上がらせれば、走り出すより先に彼女の表情が怯えた。


「後ろ!」
「っ、うざったい…!」
「血を寄越せぇ!」


振り上げられた刀に怯むわけにはいかない。俺が避ければ千鶴が斬られる――。脳裏に陽月の手が浮かぶ。沖田の刀を素手で受け止めて五指が切り落とされなかったのならば。羅刹の懐に一歩足を踏み入れ、右手で刀の柄を、左手のひらで刀身を握る。ぐちゅ、と柄を掴んだ拍子に引かれた刃が皮膚を裂く。痛みに歪んだ唇を噛み締め、振り下ろす動きの止まった刀身から一度手を離すと、顔面めがけて殴りかかった。バキ、と小気味いい音が俺の手からなのか相手の頬骨からなのかからしたと思うと、羅刹はぎょろりと赤い瞳だけこちらに向けて、俺のたったの片腕で握っていた柄を難なく解いて今一度刀を振り上げた。そうなるだろうなと凡そ自分のこととは思えないような声が頭の内側から聞こえる。


「っ誰か――助けてください!」


千鶴の助けを求める声が反響する。ふいに、彼女の高枕が目に入った。頭上で構えた刀が振り下ろされる前にその両目に高枕を投げ込んだ。


「ぎゃあああ!」


刀を握る羅刹の両手から血が吹き出るのを見た。がしゃん、と取りこぼした刀を目で追っていく途中、鋭く光るなにかが彼の腹から突き出る。呻いた羅刹は今度は蹴り飛ばされて畳に這いつくばった。彼が倒れ込んだことで、刀を構えていた土方が顔を出す。


「今のうちに早くこっちに来い!」
「土方さん!」
「こりゃあ、ひでぇ。話が通じる状態じゃねえな」
「そうさな……。ここまで狂われちゃあ、生かしておけないな」


襖の向こうから騒ぎを聞きつけた幹部方が、すでに抜刀した状態で現れた。土方に呼ばれるまま千鶴を引っ張って廊下へと勢い飛び出せば、再び刀を握る羅刹に全員が刀身を彼に向ける。ぐちゃりと嫌な音が響いた。数本の刃が体を貫く。ずるりと刀を抜けば、支えを失った羅刹の体は倒れ伏した。じわりじわりと畳の目を伝い、廊下にいた俺たちの足元にまで広がってきた血が、異様に浮き出て見えた。


「な、なんなんですか、これは!?」


少し先の曲がり角にいた伊東の気色ばんだ声が全員の意識を集める。どすどすと珍しく荒々しい足音を響かせて詰め寄ってきた彼は、部屋の惨状を見ると尚更悲鳴じみた声を上げた。土方が隠すわけでもなく舌打ちを鳴らす。居合わせた全員の顔が歪んだ。


「皆、申し訳ありません。私の監督不行届きです」
「山南さん……!」


ひどく沈痛な面持ちで影から出てきた山南に、土方は余計に顔を歪めた。彼の死を伝え聞いていた伊東は見たこともないほど驚きに唇を震わせている。永倉と藤堂が羅刹を表に出してしまったことに責任を感じているのだろう彼をなだめている姿に、次第に冷静さを取り戻した伊東が鋭い目つきで幹部方を見渡した。この伊東を謀っていたのかと問い詰め始めた彼に、ついに土方が口調を荒げた。間に割って入る近藤に一瞥もせず、彼は山南を睨みつけて状況の説明を求める。このままでは平隊士までもが集まってきそうだ。
俺はだらだらと腕を伝って流れる血を袖を握り締めることで止血をする。千鶴の方は、永倉が頭に巻く手拭いを借りて二の腕を縛り付けていた。


「……っうぐ、ぐああ…!」


山南の苦渋に滲む声が弾けた。彷徨わせるように腕を伸ばした彼の髪は、瞬く間に白く変色していく。ふらつく腕の先に、彼女はいた。
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