来はいつも

痛みは向日葵色の笑顔を消して 2 / 3


下がれ千鶴、と土方の声もむなしく山南の腕が千鶴を捕らえる。爛々とする赤い瞳に、背筋が凍える。呼吸が、できない。
彼は千鶴の腕を這う血に反対の手を伸ばし、指先で血を掬っては口に含ませる。


「やめろ、山南さん!」


刀を握り締める彼らの手が迷う。飛び交う言葉は制止を呼びかけるも無意味に終わり、彼は先ほどの羅刹と変わらない様子で滴る血を求め続けた。
――取り押さえろと土方が告げる。近藤が伊東を担いで出て行く。白刃が再び、暗闇に浮かんだ。
あの日、変若水を飲んだ彼は苦痛に喘ぎながら、自身で腹を刺した。何度貫いても塞がる傷口に苦しむ声が、耳から離れない。ぐちゃりと、肉を貫く音がする。何度も何度も、吹きこぼれる血が床板を濡らす。
血だまりに沈んでいく影を見た。山南じゃない。彼は――。


「――名前!」
「……っう、げほ! …っ、さ、のさ…っごほ! ――う、え゛」


いつの間にか、廊下の床がこんなにも近い。肩を揺さぶる原田の輪郭が何十にも重なって見える。息を吸うことも吐くことも辛くて、ふいに嘔吐けば背中をさする温かい手にひどく安堵した。


「大丈夫か、ゆっくり、深呼吸してみろ」


ひゅう、と空気が通るたびに吐き出して、そうして繰り返したあと、ようやく吸い込んだ息が肺を満たしていく感覚にじわりと涙が滲む。落ち着いた呼吸に耳元で原田が息をつく声を聞き、ありがとうと言いかけながら頭を上げる。見上げた先で、普段の姿に戻った山南が映る。ひくりと喉が引きつる。視線が合わさり、困惑げな瞳が俺に向けられた。――違う、今の彼は、羅刹じゃない。××でもなくて、そうだ、いつもの彼だ。それでも、喉が焼けるような息が上がってくる感覚に、たまらず俯いた。
とにかく一度山南は戻ったほうがいいという永倉の言葉に、彼は頷いて部屋を後にしていく。廊下でしゃがみこんでいた俺の隣をすれ違うことにさえ、指先がかたかたと震えた。


「名前」
「…うん、だい、じょうぶ。すいません、ごめんなさい……」
「お前は部屋に戻ってろ」


土方が見下ろしながらそう言うと、原田はひょいと俺を背負うと歩き始めた。一人で歩ける自信もなく、未だに情けなく震える指先をぎゅうと握り締めた。

部屋から少し離れた廊下で、ぽつりと彼は呟く。


「……山南さんが、怖いか?」


あれだけ騒いでいたのにも関わらず廊下を動く平隊士の姿はなく、やけに静かな暗い場所を歩いていく。彼の背に丸まっていた俺はふるふると首を横に振り、かすれた声を上げた。


「……そうじゃ、ない」


思い出したのは変若水を飲んだ山南だった。首を絞められ、息苦しさと痛みに喘ぐ記憶だ。それでも、恐れを感じたのは、きっと彼にではないのだ。


「……きっと、俺、山南さんと、同じだ」
「どこがだ、お前と全然――」
「一緒なんだ! あの赤い目は、!」


原田の肩口に噛み付かんばかりの勢いで叫んだ言葉に、彼は立ち止まって振り返る。


「人を殺すのも、赤い目で俺をみるのも、ああやって血を浴びて笑うのも、全部…!」


きつく原田の服を握り締める。絞り出した声は、まるでけものの鳴き声のようだった。


「……っ春じゃない…っ」


彼の白い服に赤が滲む。左手が痛みを訴えているのに、それさえも朧にさせていく。痛いと感じているのは、俺なのだろうか。それとも、


「……おれは、春じゃない……春、なんかじゃ…」


血だまりに沈むのは誰なんだ。笑いかけるのは、誰なのだろう。思い出せない。わからない。それが正しく自分の記憶であるかの自信もない。
――原田の背中が温かいと思うこの感覚でさえ、俺のものなのだろうか。
わからない。


「……左之さん、わた、し、生きてる? ……ここに、いる、のは、」
「――お前はまぎれもない名前だろ。大丈夫だよ、ちゃんとここにいる」


頭が痛い。痛くて痛くて、たまらない。原田がくれた言葉にすがりついて、ただ眠ってしまえばどれだけいいのだろう。
――ああ、傷が、痛い。
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