未来はいつも
走り続けた。走って走って、それでもまだ追ってくる。走っているうちに何故走るのかも何から逃げているのかも分からずに、ただ走ることだけを続けていた。そうしている間は、なにも考えなくてよかったのだ。ただ、時折どうしようもなく疲れて、立ち止まってしまいたくなる時があるから。じりじりとにじり寄る影に気がついて、そうして走り続ける意味を知るときに、俺は夢から醒めた。
「……」
目が覚める。呼吸をする。どくりと動く心臓に息をついて、重たい体を持ち上げた。額を手の甲で拭えば、ぐしょりと汗が流れる。嫌な朝だな、とぼやいて立ち上がり、身なりを整えてから顔を洗いに井戸に向かった。
まるで通夜の後のような静けさだ。空気が重い。水に濡れた顔を手ぬぐいで拭いながら空を見上げれば、もう昼が近いことを知った。
「ああ、起きたか」
「……永倉さん、左之さん」
「ん、おはよーさん。っつってもそんな時刻はとっくに過ぎたけどな。傷は大丈夫か?」
「おはよう。もう全然、痛くないですから」
縁側を並んで歩く二人を見上げ、俺も草履を脱いであがる。それでも埋まらない距離に見上げるほかなくなった視線を、二人は苦笑いに近い笑みで受け流す。――降り落ちた沈黙に、昨日の夜を思わざるを得なかった。
「…伊東、さんはどうなるんですか」
――苦味を飲み込んで押し殺して、そう問いかけた。何十にも蓋をして触れられないよう隅に追いやる。明確な線を引く。無意識に噛んだ唇の皮が剥けた。
顔を見合わせた二人は尚更苦い表情を浮かべ、ゆっくりと歩き始める。
「……離隊するんだとよ。平助と斎藤を連れて、な」
「っ平助と、斎藤さんを…!? なんで、」
「新八、その言い方はねえだろう。二人共、自分からついて行ったんだよ」
そんな、と言葉にならない声が歯の隙間から漏れる。藤堂は伊東の後輩であったというから、まだ想像はつくが、斎藤までもなんて。気づかずに立ち止まっていた歩みが二人を引き止める。
『後悔、しても遅いよ』
江戸の遠征から戻ってきた変わってしまった藤堂に戸惑って、どうすればいいのかわからなくなっていた時に沖田は俺にそういった。今はどうだろう。あの時と、変わらないだろうか。藤堂は伊東を選んでついていくという。――変わって、しまったと一括りにしてしまうには俺は彼の全てを知っているわけではないけれど。それでも、変わって欲しくないと思う気持ちは、きっと多分あの頃からずっと変わらない。
「……先に、広間に戻ってます」
「あ、おい名前――」
永倉の声を背に、手拭いを握り締めて進む。左手に巻かれた不器用な包帯を見やった。喉はからからに渇いていた。
藤堂の姿を探していた。探してなんになるのかと問う声に答える言葉もないけれど、沖田の言葉が俺の足を進ませるのだ。
花の匂いが満ちる。中庭の椅子に、彼は腰掛けていた。
「……へい、すけ」
俺の声に驚いたような表情をして振り返った藤堂は、がたりと荒々しく立ち上がった。それから顔を背けて立ち去ろうとする彼の腕を、掴もうとした手が空を切る。それは藤堂が行ってしまったからではなくて、ぴたりと動きを止めたからだ。
「……な、名前」
置きっぱなしの草履に足をつっかけ、中庭に降りる。彼は目元を歪めて俺を見ると、ゆっくりと長椅子に腰を下ろした。
「……手の傷は、もう大丈夫なのか」
強ばった声に、うんと短く答える。ほら、と差し出した左手を開いたり閉じたりしてみれば、藤堂は慌てたようにその手を握り締めた。
「馬鹿! お前傷が開くだろ!」
「……うん、俺、馬鹿だから、だから、後悔ばっかり、してるんだ」
彼の手は季節の穏やかさに吸い取られているかのように、ひどく冷たかった。
「引き止めたいわけじゃない。何がしたかったのかわかんないんだけど、でも、ちゃんと喋っておきたかったし、さよならだって、言いたかったから」
するりと手が離れていく。藤堂は少し俯いて、息を吸う。ゆるゆると顔を上げて、目線を俺と中庭の景色とに交互に彷徨わせていた。
「…尊皇とか佐幕とか、絶対こっちが正しいっていうの、ないと思うからさ。オレ、あの人について行ってみようと思うんだ。そうしたら、この国に本当に必要なものだって見えてくるかもしれないし」
太ももの上に乗せられた拳がきつく握り締められる。揺らがない。変わっていってしまった彼も、この場所も。彼は彼のままなのに。
「……うん。俺も、ここで、自分で考えて、頑張るから。だから、平助も頑張れ」
へらりと笑ってみせた顔は久しぶりで、うまく笑えているかもわからなかったけれど、藤堂に生きてほしいと思う気持ちは俺のものだ。だれかのもので、あるはずがない。あってほしくない。
藤堂も釣られたように苦い笑みを浮かべて、椅子から立ち上がる。薄黄緑の瞳が細められて、それからぐしゃりと頭を掻き回された。
「……総司と仲直りしろよ。何があったのかなんて知らねえし、伊東さんについていくオレがいうのもなんだけど、やっぱさ、なんていうか…。二人共口喧嘩してる時なんかガキっぽいし、似た者同士だし、それにお前負けず嫌いだし、それでもさ、なんか楽しそうだったじゃん」
「……た、のしそう?」
「うん。まあ、楽しそうっていうか……。お前馬鹿だからさ、後悔ばっか、するんだろ?」
離れた手がぶらりと下にさがり、少しの間を持たせるようにうなじを掻き毟る。
「……名前は、多分自分で思ってるより、ずっと強いよ。でも弱い。だから、だからさ…」
ちらりと視線が俺の首筋にいく。それから左手を見やる。
「…あんまり、突っ込んでいくなよ。心配するから」
「……突っ込んで鉢金割られた平助に言われたくない」
「おま、それは…! はあ、相変わらずかわいくねえな」
呆れた笑いをこぼす彼の胸板にぼす、と固めた拳を押し付けた。ぱちくりとさせた両目を見上げ、一度だけ瞬きをする。吸い込んだ空気は、とてもとても、塩辛かった。
「大怪我だけはするな」
それじゃあ、元気で。
くるりと踵を返す。縁側にのぼり、後ろを振り返らずに前だけ向いて進む俺の背中で、またなと声が弾けた。
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