未来はいつも
伊東一派が御陵衛士と名を改めて出て行ってから間もない頃だった。
鮨詰めのごとく押し込められていた平隊士たちの部屋は随分がらんとして見え、幹部方で膳を並べて食べる食事は沈黙が質量を持っている。数としては然して多くはないはずなのにも拘らず、空間がより大きく見えてしまうのは、今が夜だからなのかそれとも自分自身のせいなのかはわからない。――変わらないことなどないとは、知っていたのに。自分に近い場所で起きて初めて理解する。山南の時も、藤堂たちが出て行った時も。目に見えた変化に、当たり前などないのだと知る。もう、戻らないのだろう。いつも、気づいてはそう願ってばかりだ。いつも――。
「……いつも、」
亡霊のように覚束無い足取りで進んでいた足を止める。口元に手をやれば、案の定、あざ笑う口角がある。身に覚えのない"いつも"など、この頭のどこに隠されているというのだ。前に進めていないのは、俺だけか。眼球の裏側が、つきりと痛んだ。
「名前」
重たい足音に振り返る。名を呼んだのは原田らしい。後ろには永倉もいた。
「左之さん。どうしたの」
「広間に千鶴の客が来ててな。幹部方も同席するんだとよ」
「あれ、俺も?」
「なに今更言ってんだよ、んなのいつものことじゃねえか」
思わず言葉に詰まったのは、同等に対しての意味じゃない。こちらの"いつも"はまぎれもない、俺のほうだ。俺が小さく笑ったのを見逃さなかった永倉が奇妙な顔をしていたが、原田に急き立てられて目的のない足を広間へと向けさせる。すでに蝋燭の明かりが揺れている広間の薄く開いていた襖を開ければ、そこには沖田と山南の姿があった。斎藤さんと平助は、と問いかけそうになって飲み込む。それから見慣れない茶色の長髪を見つけると、意外にもすんなりと名前が舌先を転がった。
「……お千?」
彼女の隣に座っていたいわゆる美女と形容するに相応しい女性が睨むような眼差しを向けてきたことで間違いを危惧したが、くるりと振り返った彼女を見てそれは違うのだと確信する。千鶴に負けないほど大きくて丸い瞳だ。それがまぶたからこぼれそうになるほど見開かれた後、納得するような声が漏れる。
「……だから、名前君だったのね」
――事の流れを知っているのは山崎と千鶴、そして斎藤だけだ。お千の言葉に後ろで原田が言いよどんだのに気づかないふりをして、俺は頬を引きつらせて笑った。歪んでしまったのは無意識である。気まずかったのは、嘘ではないけれど。
なにはともあれ、お千の賢明さに今は心の内で礼を述べるほかない。
「――こんな時間にこんな所で会うなんて、思いもしなかった」
「貴女の知り合いとは、珍しいですね」
「……以前、巡察の時に町で」
誰の巡察とは、聞かれないだろう。この場にいる誰もが知らぬ顔をしているのだ。必然的に、藤堂か斎藤の二択になる。山南がそれきりなにも聞いてこないので、適当に腰を下ろした原田と永倉にならって、山南と沖田の向かい側に腰を落ち着けた。
春とは言え、夜の床は冷えている。それきり黙り込んだお千に、俺も言葉をかけるのはためらわれた――俺自身、あの日のことは今はあまり思い出したくはない――ので、恐らく彼女の目的の人物であろう千鶴と土方を静かに待つことにした。沈黙が重いと感じるより先に、お千の背後の襖が乱暴に開かれた。
「千鶴ちゃん、お久しぶりー!」
「お、お千ちゃん!?」
千鶴を先頭に、土方と近藤が広間に顔を出す。入口で目をぱちくりとさせていた千鶴に座るよう土方が促して、二人はお千たちの向かい側に座ると、ようやく全員が広間に集まったのを確認する。それで、と無言の問いかけがお千の要件を催促した。彼女は沖田の隣に座る千鶴と向かい合うと、陶磁器のような肌に乗る眉をひそめた。
「…私ね、あなたを迎えに来たの」
「……え?」
本人だけではない間の抜けた声が永倉の口からも聞こえた。続けてお千の隣にいた女性が時間がないのだと告げると、黙ってことを静観しようとしていた全員の顔が顰められる。わかるように説明してくれ、と身を乗り出した永倉に、お千が一瞬の思案をはさんで幹部方を見回した。
「あなたたち、風間を知っていますよね? 何度か刃を交えていると聞きました」
京で起こることは大体耳に入るのだと言った彼女の言葉を胡散臭いと言ってのけた土方は、とにかく話の続きを求めて問いただすことをやめた。
「あいつは、池田屋、禁門の変、二条城と……。何度も俺たちの前に現れている薩長の仲間だろ」
「仲間って言うより、彼等は彼等で何か目的があるみたいだったけどね」
「どっちにしても、奴等は新選組の敵だ」
「――では、彼等の狙いが彼女だと言うことも?」
ぴくりと手に力が入る。金髪が緩やかにたなびく姿が、暗闇に浮かぶ。抜いた刃が彼に届くことはなかった。それどころか簡単にあしらわれ、二条城の時は土方たちがいなければ千鶴は疾うに連れ去られていた。太ももに置いた手が拳を作っていたことに気づいて慌てて広げる。手のひらは付け根からじっとりと汗をかいていた。
「承知している。彼らは自らを鬼と名乗っている。信じているわけではないが…」
「ですが、信じるしかないでしょうね。三人が三人とも、人間離れした使い手ですから」
「……あはは、面白いなあ。山南さんが、そういうこと言うんだ?」
――ひやりとしたものが吸い込む空気の中に混じり込む。こういうことをけろりと言ってのけてしまうあたり、沖田は気持ちに疎いのかわざとなのかわからない。誰のものかはしれないが、近くでため息混じりの呼吸が聞こえた気がした。
「彼等が"鬼"という認識はあるんですね。ならば、話は早いです。実を申せば、この私も人ではありません。私も鬼なのです。本来の名は、千姫と申します」
鬼、と繰り返される言葉に違和感を覚えるのは俺だけなのだろうか。こんなにも人と変わりはないのに、鬼というものは一種の異形の者だろう。なにも、何一つ、俺とかわりないじゃないか。風間も、お千も――。
こうして話して、笑うのに。ざらりとした首筋の傷を撫でる。千鶴の不安げな表情が、何をさしているのかは想像がつかなかった。
「私は、千姫様に代々仕えている忍びの家の者で御座います」
「なるほどな。やけに愛想が良いと思っていたが、てめえの狙いは最初っから新選組の情報を仕入れることか」
「さあ、なんのことにござりましょう」
忍びと言われると山崎を思い起こしてしまうが、彼とはどうにも雰囲気が違いそうだ。女性だからだろうか。土方のひと睨みに動じることなくにこりと微笑んでみせた彼女は、原田の話によると島原の角屋で働く君菊という人らしい。角屋は彼らもよく使うというから、なるほど新選組の内部事情を収集するにはうってつけという訳だ。酒に酔いながら綺麗な女性が微笑めば、確かにうっかり何ぞやを漏らしてしまいそうになる――のかもしれない。
その事実に大仰に驚いてみせた永倉が後ろに転げそうになるのを、半笑いで横目見ればバツの悪い視線が返ってきた。千鶴の男装にも気付かなかった彼のことだ。素直なのだと解釈してあげよう。
少しだけ和らいだ広間の空気に、蝋燭の炎がぐらりと揺れた。
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