来はいつも

昏い羊水の似紫色に堕ちる 1 / 3


風鈴の音がする。藤堂が以前、巡察の帰りに買ってきてくれた風鈴の、柔らかな音だ。
枯葉を踏み分ける音が永遠と続く。聞こえていた童歌が遠くなっていく。足音はそれでも止まらない。この夢が覚めるまでずっと続くのかもしれないと感じたのは、果たしてこの意識が俺のものだからなのだろうか。ここはなにもかもが曖昧で、目を開けているのか閉じているのかさえわからない。それでも、ここが森の中であるとわかるのは足音のせいなのか、それとも記憶のせいなのだろうか。


「――」


誰かを呼ぶ声がする。気が付けば、それは俺の喉から発せられていた。身に覚えのない女物の着物の袖が視界の端で揺れる。いや、これは俺の腕だ。いや、私の腕だ。そう認識した瞬間、視界が鮮明に彩られていく。赤い葉が目の前をひらひらと揺れて落ちた。


「……おまえは何故いつも俺の許に来るんだ。餓鬼は餓鬼同士で遊んでいろ」
「どうして? 私がしたいようにしていてはいけないの?」
「ああ、だめだ。俺がちっとも面白くない」
「私はとっても面白いよ」
「言葉遊びがしたいんじゃねえんだ、帰れ」


視線が声の主を探すように上下左右に揺れる。がさりと風のせいではない葉音をたどれば、木の枝に腰をかけて気だるげに座る彼がいた。木漏れ日に金の髪を反射させながら、彼はだらりと落とした右足をぶらつかせている。曲げた左足に肘をついて手のひらに顎を乗せる彼は暗い色の瞳で鋭くこちらを見下ろして、それから盛大なため息をついた。


「なんで俺はこんな変なのに追い回されるんだ?」
「それはあなたが変だからよ」
「ほう、なら聞こうか。普通がなんなのか」


がさりと枯葉を踏む音がする。彼は枝から飛び降りて木の幹に背を預けた。優しい日だまりが彼の瞳を菜の花のような色に光らせる。とても綺麗だと、思った。


「私とあなたがいれば、それが普通だわ」
「けっ、ひとりでやってろ」


森の木々に身を滑らせた彼の背を追いかける。私の足が前に出る。俺の体が取り残された。





すうと息が喉を通る感触に目を覚ます。目を覚ましたから、息を吸ったのかもしれない。ぱちくりと何度も瞬きを繰り返し、煤けた天井を見渡す。のっそりと、覆い被さるように赤い前髪が垂れてきた。


「――名前」


彼の顔に手を伸ばさそうとして持ち上げた腕が視界に入る。紺鼠の着流しが緩く曲げた肘に溜まった。


「……わ、たし」


いや、違う。


「……、……お、れ」


ずきりと首が痛んだ。両手を眼前に持ち上げて、ぺしゃりと顔をおおう。名前を自覚する。痛みが、意識を促す。体中が、痛かった。


「お早う、名前。腹は減ってねえか? 千鶴が握り飯を拵えてくれて、な――」
「左之さん」


暗闇だ。両目を塞げば、瞼を閉じれば、光りは見えない。気付かないふりは、もうできなかった。


「……怪我は、してませんか。すみません、本当に、すみません」


自分でもやけに感情のこもらない声だと知っていながら、唇が勝手に言葉を紡いでいく。何か、何かを自分の口で話していないと、どうしようもなく不安だった。


「やっぱり、俺は、俺じゃなかった」
「名前」
「春なんですよ、この声も、この体も、この頭も、記憶も、全部。俺は――」
「名前!!」


びくりと身体が震える。原田の荒げる声を、初めて聞いた。
塞いでいた腕を引っ張られる。急に溢れ出した光の粒で前が見えなくて、背中に感じていた布団の湿り気がなくなり、代わりに穏やかな温もりを感じてそこでようやく、抱きしめられていることに気づく。肩越しに見た風景は、代わり映えのない襖のある景色だ。


「ここにいるのは、名前だろうが」
「……そんなの、どうして、わかるっていうんだ。俺も春もかわんないのに、」
「お前は、口が悪くて寝相も悪ぃ、気が短くて総司としょっちゅう口喧嘩して土方さんに怒られて、名前の作る飯は毎回味が薄すぎるか濃すぎるかのどっちかでお茶の一つもまともに淹れられねえ、負けず嫌いで気づいたら怪我ばっかりしてやがる。ずっと泣きてぇの我慢してて、それが、今までずっとここにいた名前だろう?」


薄く開けられた障子の隙間から差し込む光の筋が、空中に浮かぶ塵を反射させる。静かに降り積もる光を遮るように掲げた両手のひらから透明な水が一筋流れた。それと同じものが、目の淵から頬を伝い落ちる。音もなく、彼の肩口に跡を残して消える。震えている唇は、はたして俺の意識なのだろうか。
喉から漏れる言葉になりきれなかった声が右往左往する。ぱたりと力なく畳の上に落ちた両手が、やんわりと拳を作った。


「ここ、いたい、なあ……」


原田の赤い髪ばかりが、鮮やかで目に痛かった。
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