未来はいつも
ぺたり、ぺたり。女の、いや、千鶴や名前の足音より軽いそれが部屋の前で立ち止まる。気分が悪いからと早々に床に入った彼女を一瞥してから、握っていた筆を硯において障子の向こうを見上げた。
「誰だ」
ぺたり、ぺたり。刀を引き寄せ、もう一度そう問えば小さな笑い声が弾けた。
「今晩は、陽月です」
「……、何の用だ」
握り締めた鞘を放しても変わらず声が強張るのは、彼の意図が読めないからだ。陽月とは一昨年のあの一件以来すれ違った記憶もなく、しかも最後の記憶が言い争いで終わっているのだから原田としてはなんとも言い難い感情をぶら下げたままである。不得手な相手だと感じることに非はないはずだ。それは陽月も似たようなものだろうと勝手に思っていたのだが、どうにも違うらしい。
入室の許可を求めてきたので意識的にも不機嫌になった声のまま了承すれば、眩しい髪色が視界に飛び込んでくる。蝋燭の橙の明かりに染められて、それは色づき始めた紅葉に似ていた。
「ああ、なんだ寝てるのか」
原田の怪訝な視線を気にも留めず、彼は夜着の下で丸くなる名前を映して顔を歪めた。無遠慮に彼女に近づこうとした彼を、原田が居住まいを正すことで引き止める。それに気づいた陽月が踏み出した右足を引っ込めて、障子の近くで腰を下ろした。
「兄妹なのに」
「……言い間違いにしちゃあ、笑えないな」
胡座をした太ももの上で頬杖を突いていた彼の唇がぴくりと一瞬震えた。それから睨みつけるような視線を受け、原田はため息をひとつこぼす。
――血のつながりを否定するわけではない。そもそも外見がこんなにも違うというのに血など誰が繋がっていると信じるだろう。繋がりは血縁の話ではなく、精神の話だ。名前が陽月を兄といい、陽月が名前を妹と呼ぶならそれは立派な兄妹である。だが、おそらくそれは双方向から等しい向きで伸ばされた矢印などではない。思い起こせば一昨年の話であるからすべてを明確に鮮烈に覚えているわけがないが、違和感だけははっきりと覚えている。妹を思う兄にしては、些か不自然ではないか、と。
「……性別やら外見やらに拘ってるのは、どっちの話だろうな」
彼の顔を見れば見るほど、面白いほどに思い出す。名前が女だと気付き、それでもシラを切った彼女を押し倒したあの時に、彼は牙を剥いて怒鳴り散らしてきたのだ。
「……無知な奴ほどよく吠える、とでも言っておこうか」
陽月は突いていた肘を持ち上げて前髪をかき揚げると、指先からはらはらと落ちていく髪を眺めてそう呟いた。言葉使いこそ嫌味ったらしく皮肉屋だが、声に嫌悪は含まれていない。ふっと中指に絡む最後のひと房に吐息を吹きかければ、一瞬髪の色が黒く澱んだような気がした。
燭台の油の残量を横目見れば、今揺らいでいる炎が最後のようだ。
「土方があんたに教えたがらないのは、あれが嘘だと思っているからだろう」
「は?」
「この間、西の鬼に忠告されたと聞いたよ」
呼吸が詰まる。災厄を招くぞと告げた彼の言葉の真意に、気づきたくはない。
それなのにも関わらず、陽月は天井を見上げたままぽつりぽつりと言葉を落としていった。
「羅刹だなんて、誰が呼んだか知らないが、言い得て妙だな。色素の抜けた髪に深紅の双眸、人殺しを快楽として血を欲しがる。よくもまああんなものを思いついて、新選組もそれを人間に与えたよ」
まるですべて他人事だ。まるで、というには確かに彼はその件に関して他人事であったはずだ。脳裏に浮かぶ羅刹の姿が、重なる。否定をするには、あまりに近すぎている。
「……うん、羅刹みたいじゃない? 名前の身体って」
「なに、言って」
「否定はしなくていい。否定する要素を探す必要もない」
「…変若水を、飲ませたってのか」
天井から揺らがなかった彼の視線が初めて原田を捉える。その瞳に、ようやく嫌悪が滲み出てた。
「俺がどうしてそんなものを飲ませるって? 馬鹿馬鹿しい、あんなものなくたって、あいつは変わらず化物だ」
化物だと言ってのけた陽月はひとつの瞬きの後名前を見やり、背けるように、目を瞑った。
「西の鬼は、こいつを嫌ってただろう?」
「……春っていうのは、そんなに名前に似てるのか?」
「はは、相似の問題じゃあない。例えばあんたは土方に、あんたは土方によく似てるななんていうか?」
よほど面白かったのか腹を抱えて笑い始めた陽月は、引きつった呼吸が苦しいのだとでもいうように襟元を握りこんでいた。
春は紛れもない名前本人なのだと、彼は事も無げに言い放った。ここにいる名前が壊れないよう崩れないようにと区別してきた二つに明確な境界線などなく、ましてやそれはただのひとつのものであったのだと。ならば、彼女が春を否定するたび、彼が二人を分けるたび、残されたそれは、いったい誰であるといえるのだろう。
「…時間がなかったんだ」
ぞわりと背筋が粟立つ。その恐怖感を凪ぐような涼やかな声が降り落ちる。畳の目に食い込ませていた指先が痺れて初めて、痛みを知った。
「名前は、俺の妹なんだ。だから、それがどちらであるのかなんて、俺にはもう強制できない。ただ、もしも…そうだな、鬼の言うとおりに災厄になってしまうなら、どちらも…いや、どちらというのは可笑しいか。その体は、死んでしまうのが一番いい」
言葉とは到底言い難い声が舌先で転げ落ちる。陽月の動きに合わせて揺れる黄金の髪が、彼の伏せた両目を隠して見えなくさせた。
「土方が言わないものを、あんたに教えてあげるよ」
すっくと立ち上がった彼は大股一歩で名前の隣に立つと、その首筋をためらいなく握り締めた。なにして、と不自然に切れた声を投げるも、ぎりぎりとその指先に力を込めていく。
「蛤御門での一件の前もそうだ。この首の傷も、この間も、全部春がやったことだ。春が名前を殺すたび、表に出てくるのは名前じゃない。この体にとって、必要なのは名前じゃあないんだ」
「……っう、ぐ」
「っど、ういうことだ」
一瞬眉根を寄せた名前に小さく笑った陽月はぱっとその手を放して部屋を横切ると、雨音を遮っていた障子を開け放つ。
名前は一体何なんだ、と問いかけてしまった言葉に彼は振り返って目を伏せた。土を抉るような雨の音が、彼の声をかき消してしまいそうで思わず上半身を乗り出す。そんな原田を嗤うように、彼はわざと声量を落として呟いた。
「臍帯、ってとこかな」
そう呟いた彼の顔は、障子を開けたせいで吹き込んできた風に炎が消えたせいで、よくはわからなかった。
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