来はいつも

繋いだ花葉色の糸 1 / 4


あの日は蝉の鳴き声がやけに五月蝿く感じていたのを覚えている。
長州が池田屋の報復にか、屯所と巡察中の一、二番組が襲われた事件の後名前を間者ではないかと糾弾した一週間後、彼女が目覚めてから翌々日のことだった。夕方からやはり調子が悪いのだと早々に寝入った彼女は早朝の巡察当番だった原田が出かけた後も目を覚ますことはなく、朝餉にも顔を出さなかった。監視にと見張らせていた山崎が、土方の部屋に訪ねてきたのは昼間も近い頃であったと思う。様子がおかしいのだとただそれだけ伝えてきた彼は珍しくそれ以外に言葉を継ぎ足すことはなく、土方は眉根を寄せながら当人の部屋へと赴けばそこにはなぜだか陽月の姿があった。


「何でお前がこんなところに、」
「土方さん、ちょっと」


山崎は廊下に締め出して、土方だけを名前のいる部屋に引きずり込むと、険しい表情で畳に座り込んだ。様子がおかしいと告げられていた彼女自身は別段おかしな風でもなく、それどころか穏やかな寝息を立てて夜着に包まって眠っていた。


「なんだってんだ、一体」
「空いてる部屋ってありませんか。"名前"が目覚めるまで、別の部屋に置いておいてもらいたいんです。できれば、人の声のしなさそうな、暗い部屋で」


突然そんなことを言い出した彼に怪訝な目を向ければ、彼は早く、とそう急かした。多少ならまだ空きのある部屋があったので、仕方なく――鬼気迫る、というほどではないがそうせざるを得ない雰囲気があった――彼女を担ぐ陽月を案内するため廊下に出れば、じっと待機していた山崎が鋭く陽月を睨みつける。部屋を移す旨を伝えればやはり疑いにかかる彼を別令の任務を押し付けて遠ざけ、要望通り奥まった部屋に彼女を運び入れた。


「――それで、わざわざ何のために部屋を移したりなんざ」


布団は後から持ってくるとして、ひとまず起きそうにもない彼女を直に寝転して、男二人で向かい合う。使っていなかった部屋は埃っぽく、それでいて異様に寒気を感じた。


「信じる信じないは土方さんの自由だ」


胡座をかいた彼は唐突にそう言ったあと、顔を歪めた土方なんぞお構いなしに話をはじめた。


「ある男には名前がなかった。子供にも、名付けられた名はなかった。ただそいつは季節の春が好きだからと自身を春と名乗り、男を紅葉と呼んだ。それが、始まりだ」


廊下から漏れる陽の光だけでは室内は薄暗く、とうとうと話す喋り口に対してその顔がどんなものであったかは、目に見えたものが絶対である確信は持てなかった。


「春は生まれつき、普通にはない力があった。怪我の治りが異常に早いっていう、ただそれだけの奇怪だ。土方さんは物の怪の類を信じます? ああ、信じない? まあ鬼の副長っていう名前自体がすでに鬼だしな――って睨まないでくださいよ。まあ、土方サンは不信心者みたいですけど、残念ながら春がいたのは小さな村落、悪鬼妖し呪いは確実に存在していて、そんな村じゃあそいつは忌み嫌われて仕方ない。おかげさまで捻て育った春は遊び相手も家族もおらず、ただ気慰みに森に遊びに行っては紅葉を相手にしていたそうな。片方が異形ならもう片方も人ならざるものだという。そうして普通じゃないもの同士が出会ってめでたしめでたし――で終わらないのが世の常だ」


せせら笑うかのように話す彼は長い前髪をかきあげて、瞬きを一つした。その暗い瞳から少しも目をそらせなくなる。それが、今この現状の何と関係があるというのだ。


「娘が十八になったとき、その村で死に至る病が流行った。初めから住民なんぞ両手両足で足りるような人数だ、例に漏れず春も病に罹って村はひっそりと終わりを告げた」
「……それで終わるんなら、こんな話はしねえだろうな」
「そう。でもご期待に添えずあいつは死んだ。それでも、迎えたのは肉体の死ではなく精神の死、死んだのは春という人間をなす意識。異常な治癒力は、容易に肉体の変化を正常にしてしまったわけだ。ところで土方さん。世界っていくつあると思います?」


お茶でも飲むかと聞いてくるような気軽さで問いかけられた言葉に、返す言葉は非難しか見つからない。返答せずにただ睨むように目線を送っていれば、彼はつまらないと独りごちて話を進めた。


「要はパラレルワールドっていうことだ。世界がひとつと誰が決めただろう、この世界の足元さえ、引いてはその空間さえ誰も目で見ることはできないっていうのに。果てなんて誰も知らない。でも、たしかに存在する。
春の人格が死んだあと、肉体の中身は空っぽになるだろうか。いや、それでは肉体は生きていけない。春の人格の死のあとにあるのはまっさらな意識ひとつだ。そして、精神の死によって招かれた結果はそれ以上の成長を止めること。さらに言うと異常な治癒力は老いまでも癒してしまったというわけで、まっさらな意識は零から始まり、成長が止まったせいで加齢の最大値と思い込んでしまった十八で死に、同じ年月分若返ってまた生まれてを繰り返す。それを五回ほど重ねれば、゛ここにいる゛名前の誕生っていうわけだ」


突然飛び出して来た既知の名に、適当に受け流していた意識を乱暴に引き止める。数拍の間を持ってようやく言葉にしたのは頓狂な凡そ言葉とは言えない音の塊であり、表情を崩した土方に陽月は言葉を重ねる。


「こいつの名前が人別帳にないのは、名前という存在そのものが嘘っぱちだからだ。武州じゃなくとも、どこを探したってこいつの名も存在も知ってる奴はいない」
「……人別帳だのなんだの、それ以前に、十八年と十八年、それを五回も繰り返せば二百年になるぞ。彼奴は今から二百年も前の人間だっていうのか?」
「違う。生まれたのは今から数ヶ月前の、雪の降る日だ」
「……お前の話を信じるのなら、それこそおかしいだろうが」
「おかしくないさ。だから言ったでしょう、世界はいくつあると思いますかって」


今度は違う意味で漏れた声に、陽月は頭を掻き毟る。二百年も先の人間だとあっけらかんと言ってみせた彼はやはり気が狂っているとしか思えない。こんな妄信に付き合わされるほど暇ではなく、先日の長州の件で方々へ事の詳細を報告しなければならないのだ。返事が遅れれば遅れるほど、相手には新選組が敵対行動に出ているのではないかと勘繰られる可能性もないわけではない。土方は現実問題にひきつるこめかみを押さえ、呆れと皮肉を込めたため息を盛大についた。


「話はそれだけか」
「まあ、信じるか信じないかは土方さん次第、って言ったばかりですし、いきなり納得させられても俺も困る。ただ、あいつはもう十八を過ぎてる。"今回の名前"は異例だ。いつ変わるか俺にもわからないし、もしかしたら今度は――」
「俺からすれば、あいつがこのまま変わらずに成長することがその話の否定になる」


さっさと立ち上がって部屋を出ていこうとする土方を、名を呼ぶことで引き止めた。


「この話、本人すらも知らないんだ。時が来るまで、誰にも言わないでほしい」
「手前が信じてねえもんをどうして他人に言うってんだ」
「じゃあ、夜にでもこの部屋に来るといい。俺がこいつを移せといった意味が、きっとわかる。……ただし、行くなら一人じゃなく、俺を連れて行ったほうがいいと思いますけどね」


ぱたりと閉め切った障子越しにもう一度ため息をついた。もうすぐ日も暮れる。部屋を移してしまった時点で原田は巡察から帰ってきているだろうから、その事実に気づいているだろう。ならばまた部屋をその日中に移すのは説明に手間がかかる。――彼の話したことが事実であり、その春とかいう大元の人格が残忍なものであるが故にこうするほかなかったというのなら、やたらに誰かと会わせることもためらわれると考えたことを否定することもない。変若水云々のために拾った人間が、全くの別問題として面倒な枷になるとは。溜息の後に吸い込んだ息は、肺の奥深くに鎮座していた懐疑を脳内に積み置いていった。
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