来はいつも

嘘と傷痕の留紺色の痛み 1 / 2


緑の生い茂る森の中。心地よい風は草木を揺らし、"誰か"の長い髪を靡かせている。風の音はしなかった。

そこには一切の音が無く、あるのは鮮やかな色だけ。

俺がずっと立ち尽くしていれば、"誰か"はゆっくりと振り返りゆるりと微笑んだ。寂しそうな、悲しそうな。酷く胸が締め付けられる笑みを浮かべて。
ツ、と頬に何かが伝った。
"誰か"はいつの間にか俺の目の前にいて。俺の頬にその手を添えると、赤く色づくふっくらとした唇を耳元に近づける。
そして囁かれたのは、呪詛。


「約束したのは私なの――私は、死ねない。そこに要るのはあなたじゃない、あなたの心は」


要らないの。
ずるりと体の中に何かが割り込んでくる。俺の大切な何かが、ストンと抜け落ちていくのを感じた。





「……ッ」


吐き出しそうになった息を呑み込んで、口元に手を当てる。指の間から漏れた呼吸が苦しい。垂れた前髪の隙間から周りの様子を覗けば、彼らの目は千鶴に向いていた。
――陽月を間にして挟んで座っていて良かった。
俺はゆっくりと乱れた呼吸を直しながら、米神を伝う汗を肩口で拭う。


「…どうした、名前?」


隣から聞こえた彼の声を聞くと、何故だか酷く落ち着いた。俺は大丈夫と呟いてゆっくりと顔を上げれば、険しい顔の土方と目が合ってしまった。


「……あの蘭方医の娘となりゃあ、殺しちまうわけにもいかねぇよな」


面倒くさそうな口調でそう呟いた土方に、張り詰めていた空気が和らぐのを感じる。はあとひっそりと零した溜息に、肺の中の濁った空気が全部出て行くような、そんな感覚を覚えた。
どうやら千鶴の処遇は決まったらしい。――最初から助かると、分かっていたけれど。
そして土方は、俺に目を向けながら口を開いた。


「…お前、どうしてこいつが殺されないと思った」


夢の残像がちらついて、すぐにその答えが出てこなかった。


「…え? だって…千鶴ちゃんは…」


変なところで言葉に詰まってしまって、唇を噛んだ。
耳鳴りとも違う、どちらかというと鈴の音のような高い音が、頭の中で響いてうるさい。
――なんなんだ。


「……女の子だって、知ってたし、それに――。殺されちゃ、いけないから」
「…お前、真っ青じゃねぇか」


彼にそういわれて初めて、まだ自分が夢現であることに気が付いた。――ちゃんと、しっかりしないと。
俺は丸まった背中を伸ばして顔を上げ、そしてゆっくりと笑った。


「千鶴ちゃんが殺されたら、俺が困るから。偶然居合わせただけの女の子を殺すような集団だと、思えなかったですし」


その言葉に彼の表情が崩れるのが分かった。どこからか聞こえた忍び笑いに、俺は少し安心する。
イレギュラーな自分の存在は、いつ殺されようとおかしくないのだから。


「…んで、他に言いたいことは?」


土方は腕を組みなおしそう俺に問うてくるけれど、千鶴のような理由をもっているわけもなく。うーん、と俺は唸り、はっと思いついた、これだけ言っておかなければとでてきた言葉を笑顔で紡いだ。
――それが一番、心からの本心でもあったのかもしれない。


「死にたくないですね。あ、あと帰る場所がないです」


千鶴のように、例えば帰る場所を探しているとでも後付すれば、また何かが変わっただろうか。
相手方が少しでも考えてくれればと僅かな希望を持って口にしたが、近藤は例の如くのっかってきた。


「帰る場所がない、と? そうか……まだ幼いのに、さぞ大変だっただろうなあ」
「いえ……一応、俺は今年で十八ですから」


もう幼くなんてないですよ、そう答えれば、一瞬時が止まった。その反応の意味が悲しくも分かってしまった俺は、人知れず溜息を零す。――昔から、この顔は酷く童顔なのだ。


「もう元服も済んでたのか…そりゃ驚きだ」


土方は感心そうにそう言ってみせるが、大体元服は十二前後ないし十五歳くらいまで男子がする儀式だろうに。
からかわれているだけなのか、それとも事実そう思ったのか。
文句を言いたくなるのを呑み込んで、俺は話を元に戻す。


「…それで、どうするんですか? 未だ腹を切れとでも仰るんでしたら、そうせざるを得ないですけど」


ちらりと横目見た原田あたりは、少しだけ口元をゆがめていた。近藤が土方を見やる。
山南の視線が俺に向き、そして同じく彼に移った。
どうやら決断を下すことは、副長の仕事らしい。
彼はゆっくりと、口を開いた。


「…新選組預かりとする。異論の在る奴はいるか」


それぞれが思うところが多々あるようだが、副長の判断と言うこともあって異論を唱えるものはいなかった。土方は次に日月を見ると、思い切り眉をひそめた。
――陽月が何も見ていないと言い切れる、その現場に居合わせた一人なのだから。
それが伝わったのか、彼は少し気だるげな声で、


「俺、帰ってもいいですかね? 濡れ衣着せられたし、そもそも俺に何の罪もない」
「確かに、お前にゃ何もねぇ。捕まえるにも罪もねぇし、ま、取り敢えずは釈放だな」


とりあえずは。
その言葉の真意を、恐らく彼を含め全員がよく分かっているだろう。敢えてそういう言葉の選び方を彼はしているのだから、流石ともいえる。陽月はにこと笑い、「じゃあ俺は家でおとなしくしてたほうがいいかな」とわざとらしく言葉にして念を押した。
土方は彼の近くにいた藤堂に、その手の縄を解かせる。若干の赤い痕の残った両手首を捻りながら、痛いねと俺に話しかけた。――それもやっぱり声を大にして言っているのだから、多分彼はちょっと頭にきているみたいだ。俺はそうだねと頷いて、それからまた今度と呟いた。
彼が家に帰るというならば、暫く会うことはできないから。そういった意味合いで呟いた言葉に、彼は表情を曇らせた。


「…土方さん、ちょっといいですか?」


そういって立ち上がった彼は上座のほうへ歩き、二人で何かこそこそと話を始める。俺は二人をじっと見つめていたが、寄ってきた千鶴に意識を向けた。彼女は少しだけ目を伏せ、口を薄く開いたり閉じたりしている。眉を八の字にして、酷く申し訳ないような表情を浮かべるものだから。
俺は苦笑いを浮かべて、


「気にしなくていいんだよ」
「…名前君」
「大丈夫だよ。あ、そうだ。原田さん原田さん、俺の縄解いちゃくれないですか?」


早くも雑談を始めていた三人組に話しかけると、赤い髪がぴょんと跳ねた。彼は話し込んでいる土方に視線を向けるも諦め、山南に声をかける。その視線の意味に気付いたのか、彼はこちらに歩み寄り、にっこりと微笑んだ。


「しっかりと、見張っておいて頂ければ構いませんよ」
「む。……俺だって逃げたりなんかしませんよ」
「念には念を。万に一つの可能性の問題ですから」


彼は穏やかな笑みでもってそういうが、万に一つどころか十に一つの可能性と考えているだろう。信頼なんてこれっぽっちもないのだから。
藤堂は俺の後ろに回り、脇差で縄を解いた。
はあと全身から力が抜けるような感覚がして、俺は思わずふらりとする。自由になった両手を掲げてみれば、どれだけ力強く縛り付けたのか、はたまた俺の寝相が悪かったのか。内出血と擦り傷の痕が残っていた。
大して酷いものじゃないが、千鶴が小さく口の中で声をあげたのが分かる。


「名前君、痕が……っ」
「大丈夫このくらい。舐めとけば治る」


俺の傷に躊躇いがちに触れる彼女の手が、酷く小刻みに震えている。それはこの傷の所為だけじゃなく、恐らくもっといろいろな何かに対してのもの。
三人組は顔を見合わせ、ばつが悪そうに顔を歪めた。
俺は千鶴の頭を撫でながら、


「…ごめんね、私の所為だよね」
「――そんなことない。気まぐれだし、完全に俺の自己満足なんだからさ、千鶴ちゃんは関係ないよ」


うん、彼女はか細い声で頷いた。そこに沖田と斎藤がやってきて、彼女を挟むようにして後ろに立つ。行くぞ、と斎藤が言えば千鶴は頷き、前を歩く彼の後ろについた。
千鶴が「また後でね」と手を振るから、俺もつられて手を振りかえした。


「……気まぐれにしては、どうして屋根の上なんかにいたんだろうね」


小声で呟かれた事実は、彼らの歩く音にかき消された。俺はひくと喉を鳴らせて、にやりと笑った沖田を凝視する。彼はじゃあねと明るい声音で告げると、部屋を後にした。


「……やろう」


ぽつりと呟いた暴言は、舌の上で転がった。


「このままここにいても仕方が無いですし、今日のところは原田君、彼を任せましたよ」


山南が笑顔で原田の肩を叩くと彼は一瞬面倒そうな顔をするが、


「まあ構わねえけどよ」


原田は俺の背中を押して、同じく部屋を後にした。
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