来はいつも

繋いだ花葉色の糸 2 / 4


会津藩への文をしたため、仕事に切りのついた草木も眠る丑三つ時。土方の否定する言葉に対する安い挑発だとは知りながらも、一応確認に行かないわけにはいかなかった。もしもの為に勿論山崎に見張らせてはいるが、二人で結託して出て行かないとも限らない。――いや、もし倒幕のために変若水の情報を抱えて出て行くのならば、早々に出て行っていただろう。斬られた致命的な傷を負いながら新選組に力を貸すこともない。頭で考えていた負の要素を実現させるためには、彼女は無意味で不必要なことの積み重ねをしている。
目の疲れから痙攣する瞼を押さえつける。新選組のためを思えば、間違ったことなどしていない。全てを懐疑し暴いて害あるものは排除する。変若水なんぞと危ういものを抱えているのならば、尚更鋭く尖らせなければならないのだ。


「……流石、副長殿」


月の光も差さない奥の部屋の襖の前で、男が一人しゃがみこんでいる。暗闇に沈む稲穂に似た髪は、明かりもないのに煌めいて見えた。思わず光源を探して視線を巡らせれば、視界の端ですっくと立ち上がった彼がなにもしてないと両手を頭の横に持ち上げて笑った。罠でも、と疑われていると思われたのだろう、そう考えると何をしているんだかと呆れた声が内側から上がる。土方は取りなすように咳を一つすると、声を潜めて襖の先を見た。


「それで、何を見せてくれるって?」
「十八年以上も生きていた"名前"はいなかった、って言いましたよね。本来なら……あんたたちに会ったあの雪の日の……、いやそれより前に、名前は死ぬはずだったんだ。だけど名前は生きている。そして……春は、生まれ変わって……それは語弊があるな、……うん、春は戻ってきたんだ」


ぼうやりと遠くを見やる陽月に、昼間とは違う、より鮮明に気味の悪さを感じた。有り体に言えば狂気じみている。名前は妹なのだと言っていたのは嘘で、本当は彼は春を望んでいるのではないのだろうか。春が名前なのだと、話を信じてそう位置づければ、あの紅葉とかいう男は必然的に――。


「土方さん。開けていきなり襲われるなんてことはないですから、そう構えないでどうぞ。運悪く目が覚めてれば、春と話くらいはできるかもしれないですよ。ただ、俺は安全装置みたいなものですから」


とく土方さんはなかなか女好みの顔をしているから。
くすくすと笑う彼はゆっくりと襖に手を伸ばし、さらに濃い闇の先に足を踏み入れた。ピリピリと空気が皮膚を刺す。瞼の痙攣は、先ほどよりも強く現れた。


「……だあれ」


女の声だ。音を震わせる喉は同じ人間のものなのに、べっとりと貼り付くような聞き慣れない声に背筋にわずかに汗が滲んだ。光も差し込まない完全なる闇の中で、陽月はただ自然に畳に腰を下ろした。


「お前は誰だ」
「……、……私には、名前はないわ。呼び名はあるけど」
「じゃあ、それだ」


一瞬の沈黙の後、春と告げられた声が響く。ざり、と畳を擦る音が土方の足元から発せられた。


「……もうひとり、いたの」
「気にしなくていい。それに名はない。名がないのなら、いないのと変わらん。それよりも、俺はお前に聞きたいことがある」
「じゃあ、あなたもいないのね」


突っぱねるような声はまるで幼子のようで、こらえきれずに吹き出した陽月の笑い声が張り詰めていた糸をたわめた。


「そうか、そうだな。なら俺は陽月でいい」
「そう。それで、あなたは私になんの用?」
「お前は春じゃないだろう? 春は疾うに死んだ」


死んだんだよ、と抑揚のない声が何度も告げる。死という単語が声になるたび、空気は鉛に変わり、刺となって肺を刺す。両肩にのしかかるこれほどまでの殺伐としたものは、戦場とは変わった殺気だ。浅くなる呼吸を隠すように静かに大きく息を吸い込めば、鉛が一つ、消え去った。


「私を春と呼ぶ人がいるなら、紛れもなく私は春だわ」
「それは"勘違い"だ」
「私としての自覚があれば、呼び名なんてなんでもいい。初めから私たちには名はないもの。そして……隣にいるのが、あなたなら」


暗さに慣れてきた両目が、女の白い腕を捉える。それが徐々に陽月に伸ばされ、触れられる前に彼の腕がそれを掴んで止めた。


「紅葉、青葉、透、花楓、志季、光、陽月……呼び名はあれど、どれもあなたじゃあないというのに、それなら私が春と名乗るのは、間違い?」
「……いいや、俺は俺としての自覚があるから、それ全てが俺なんだ」


恐らく掴んでいた腕を放し、彼は徐に立ち上がると彼女の頭を撫でてきびすを返した。
もういいだろう、もう十分だろうに。小さな声が本人の笑う声にかき消された。


「行こう。もうしばらくは出てこないだろうから」
「さようなら?」
「ああ、さようならだ」


土方が出たのと同時に閉め切られた襖に目もくれず、陽月はその場から離れていく。狂気じみた空気に当てられて冷えた足先を温めるように、そのあとを追う土方は、まず何から問えばいいものか考えあぐねていた。


「…精神の死、人格の死…何度も何度も目の前で死んで行くのを見て、その度に赤子を見る」
「……」
「いや、人格の死という表現は間違っているだろうな。死んだら記憶も残らないか」
「……意味がわからねえな。なら、春ってのが出てくるのも今に始まったことじゃあねえだろう」
「ああ、そうだ。詰まる所、五番目の名前という人格は不出来だったってことだ」


廊下の明り取りからようやく光が差し込む。月の光に浮かんだ陽月の表情は、見たこともないほどに痛切さそのものだった。


「人の本当に嫌な記憶っていうのは、思い出してまた傷つかないようにうまく押し込められるようになってるんだ。無意識下の人格の防衛反応だ。その防衛反応がうまくできなければ、死にたくもなってしまうな」


言葉が出ない。久しぶりに理解が追いつかず脳内で情報だけがぐるぐると巡って熱を帯びていく感覚を覚えた。


「土方さん、ひとつお願いがあるんですけど」


混線する思考回路の中で、ただ一つだけ、彼が土方と呼んで物を言う時だけは敬語を使う奇妙な言葉遣いだけを拾い上げる。冷静さを取り繕って平静を取り戻すように、きつく腕を組んで陽月を睨むように見つめた。


「俺を監察方のほうに回してはもらえないですか」
「……監察方ってのは志願するもんじゃねえ、俺が決めるもんだ」
「だからお願いしたんですよ。隣の前川邸のやつら専門がいい、逃げたとき仕留めるも捕らえるもお手のもんですよ」
「お前、どこであいつらのことを知った」


前川邸――変若水を飲ませた"新撰組"の面々がいるその場所は、新選組が隠したがっている、隠すために千鶴や名前を目の届くところに置いている、その原因だ。勿論彼にこの話をするわけもないし、どこかで聞き漏れたとしてもそんな無用心さは持ち合わせていないつもりだった。自然と鋭くなった眼光に、彼は項を掻いて答えを探している。


「におい、ですかね」


返答によっては刀を抜くこともやむを得まいと考えていた土方にとって、その言葉は予想だにしていなかった。思わず間の抜けた声を出しそうになって、ふざけてんのかと荒げれば、陽月はけろりと笑ってそんなことないと首を振る。


「沖田さんと名前が一番最初に戦ってたとき、あの人の刀を素手で受け止めたの、覚えてます? あの五指斬れ落ちそうなくらいの傷が、どれだけで治ったのかも……覚えて、ますかね?」


たしかに、刀を握られるようになるのがあまりに早いとは感じていた。それでも包帯はしていたからその下の傷がどうなっていたのかにまで考えは及んでいなかった。
ぴしゃりと冷水を浴びせられたように、背筋ばかりが冷える。
変若水は幕府から密命を受けたものだ。それ以前の変若水に関しての話は聞いてはいない。鋼道の行き先も、いまだ不鮮明だ。自分たちの手元に有る変若水だけが全てではないということはわかりきっていた。
刀の鍔に親指をかけると、陽月は両手を前に突き出して左右に勢いよく振ってみせた。


「いやいや、俺変若水なんか飲んでないですから。あんなもの飲まなくたって、元から人じゃないですし」
「……なら、お前は……いや、紅葉、だったか――」
「……その名前で呼ばれるのは、好きじゃない。でも、そうだ。まあ、カテゴリ分けするなら人外で十分だろ」


そう聞き慣れない単語をぼやいた彼は唐突に刀をわずかに引き抜くと、ためらわず親指を押し当てて傷口を突き出した。余程力を込めたのかだらだらと流れる鮮血は手首あたりにまで伝って床に落ちた。それきり、溢れる血は流れを止め、陽月が手のひらで親指を拭って再び突き出したその傷口であった場所には、まっさらな皮膚がつながっていた。


「もう、俺も年だから致命傷じゃさすがに死ぬだろうけど。俺が前川邸の監察方につきたいのは、こういう理由もあるし、巡察とかみたいな表立った行動が苦手なのもそうだし、なにより自分が人じゃないからか、ああいうのが気に食わないもんで。剣の腕にはご存知の通り自信がありますから、適役かと――」


その言葉に乗せられてしまうほどには、やはり今日は疲れていたのだろう。

それから千鶴たちに部屋に近づけさせないために念を押し、近藤と山崎にだけは陽月の異動と名前のこと――ただ、なんとも現実味のない話だったので掻い摘んで勝手に話を適当に並べて説明した。説明、とも呼べない言葉の羅列だ。理解していないものをどう伝えられるだろう。二人はことごとく人間ではないということを、だろうか。それはなんの笑い話かと休養命令でも下されそうだ。現に、一晩二晩と時が経つほどにあれは悪い冗談だったのだろうとさえ思えてくる。それでも、時折逃げ出した新撰組の彼らをすぐに捕えて無力化させる陽月は確かに、人間ではないのかもしれないと思わせた。
信じられなかったからこそ、本人に問いただすのが一番だろうと考えた結果、陽月であった名前の羅列でひとつ前のもの、"光"という名を名前に問うてみたのだ。そうすればどうであろうか、彼女は光なんていう人間は疾うの昔に死んだのだ。あまつさえ彼女が殺したのだと言ってのけたのだ。事情というには薄っぺらいが、それを知る者としては蛤御門の招集に彼女を屯所に置いておくことはためらわれ、そして風間との関係も疑わなくてはならなくなってしまったのだ。

――あの時名前も陽月も手放してしまうことが、最善だったのだろうかと思うときがある。いわば現状の結果論に過ぎないが、風間たち鬼が攻めて来るたび交戦し、仲間が死に、春という人格はその仲間も傷つけかねない。それを言えば千鶴も、というより鬼が攻め入るのは彼女が鬼であるからという理由によるものだから、単に二人を突き放して解決する問題でもないのかとため息をついた。
それでも。確かに、あの時名前もただの女ではないという事実は、今になってようやく理解することはできそうだ。


「土方さん!」


珍しく荒々しい原田の声が、襖を開けるより先に響いてきた。ちょうど締りのいいところで落ち着いたので筆を硯において見上げれば、乱暴に開け放たれた襖の間からなんとも言い難い感情を向ける彼がいた。


「らしくねえな、何があった」


――なんとなく、彼が何を言いにここに来たのかに気づいてしまって、怒鳴りつけようとした声を飲み込む。吹き荒んだ雨のひとしずくが、畳を濡らしていた。


「――全部知ってたんだろ、土方さん」
「何の話だ」
「あの時あいつをすぐに押さえつけたのは、あいつが名前じゃねえって気づいてたからか」


外の雨が激しさを増す。遠くで聞こえる雷鳴に、崩れる音を重ねた。


「……はあ。あいつはまだ起きてるんだろうな」


今にも消えそうな蝋燭の炎を吹き消して、立ち上がって廊下に出る。
時が来たらと彼は言った。恐らく陽月からなんらかを聞かされてここに原田が来たというのなら、それが今なのだろう。時、という曖昧な言い方は、何を指しているのかなど知る由もないが。
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