来はいつも

繋いだ花葉色の糸 3 / 4


「こうして話すのは初めてね」


高い女の声が聞こえる。目を開ければいつかに見た、真白な果てのわからない空間を見つけた。


「もうすぐ、もうすぐね。その場所は、あなたの場所なんかじゃない」
「約束したのは私なの――私は、死ねない。そこに要るのはあなたじゃない、あなたの心は要らないの」


聞き覚えのある台詞がたゆたう意識を殴りつける。それなら、要らない俺というものは、いったい何のために、どこへ行けばいいのだろう。
突如、空間が俺の首を絞める。要らないのだから死ねばいい。要らないのだから消えればいい。遠いいつかの言葉と重なる呪詛の声が、何度も何度も心臓を貫いた。





誰かの話し声がする。喉の異物感に顔を顰めて目を覚ませば、久しい――いや、懐かしい?――声に顔を向ける。


「臍帯、かな」


そうして呟いたあと出ていったその背をしばらく呆然と眺めていれば、誰かが唐突に俺に声をかけた。


「――目が覚めてたのか?」


戸惑いながら問いかけるようにかけられた声に、かすれた声で今さっき、と答える。そうすれば安心したというのかなんというのか、どうにも表現できない顔を向けられて反応に困った。ひどい眩暈が消えたのを感じながら起き上がれば、彼も同時に立ち上がっていた。


「どこ、かに?」
「……ちょっと、土方さんのところに行ってくる」


そう言っていなくなった彼が戻ってきたのは、少しの間もない頃だった。





どうしてだか土方も連れて帰ってきた原田は、することもなくぼうっと蝋燭の炎を見ていた俺の頭を掻き撫でてから隣に腰を下ろした。腕を組んだままいつにも増して眉間に深い皺を刻む土方が面白くて唇が歪みそうになるのを堪えて、ふと気が付く。なんて他人事なのだろう。これからきっと、土方はなにかを教えてくれようとしている。夢の中で春に言われた言葉が今更になって反響する。俺はいったい、なんなのだろう。


「おい名前」


名前。名前を呼ばれてはっとする。呼ばれることで自覚する。――呼ばれなければわからない。
なんですか、と原田も驚く程にすんなりと抑揚ない声が喉を通る。今の俺は名前で間違いないはずだ。いや、それもなんだか奇妙に思える。ふわふわと漂う感覚を必死につなぎ止めて、首をかしげた。


「一昨年の話だ。蛤御門に発つ前、お前だけ部屋を移したのを覚えてるか」
「そんなこともありましたね」


そのあとに、俺は土方となにやら口論じみた話し合いのようなものをしたような気もするのだが、モヤがかかったように思い出せない。けれど確かに、それから土方に対して抱く思いは苦手意識であった。それは覚えている。
大抵彼は物事を頭で考えてから口に出すような人なので、言葉の間に空間があるのが常ではあるのだが、今日はそれがやけに長いように思われる。余程羅列する言葉に悩んでいるのだな、とこれまた外側から声がした。


「あれは陽月から頼まれたことだ。あの時、お前は春だった」
「……だから、全然覚えてなかったんですね」


寝込んでいても寝起きした記憶くらいはあってもいいものだろうに、それが全くなかったのだから違和感は感じていたのだ。今になって告げられた事実は、先日の春に体の内側に追いやられた記憶よりは褪せていて、感覚に乏しい。そんなときから、俺は俺ではなかったのかと笑い話にもなりはしない。

――それから続けられる話は、非現実的なのにも関わらず自分の中で否定する声は聞かなかった。
世界はいくつあると思うか。その言葉を理解するにはなにかが足りない。自覚だろうか、認識だろうか、それとも記憶だろうか。結局話を聞いたところで俺自身の欠落に気付くばかりで、俺というものを結びつけるめぼしいなにかは見つけられなかった。
落胆とは違う。それでもなんの感情も思い浮かべない俺に何を思ったのか、土方は話はそれだけだと乱雑に投げ捨てた。


「……そう、そっか。じゃあやっぱり、俺は春なんだ」


その二度目の言葉を、原田は否定しなかった。
徐にすくと立ち上がり土方の横を通り過ぎた俺を原田が引き止める。どこに行くんだと目元を歪ませられながら問われると申し訳ない気持ちが優って、ちょっと外の空気が吸いたくなっただけですと笑ってみせる。尚更、その端正な顔が歪んだ。


「もう一度聞くが、」


襖に手をかけた動作を引き止める。振り向けば、土方は首を捻って俺を睨みあげていた。


「お前にとって、光ってのはなんなんだ?」


少しの沈黙のあと、頓狂な声が舌先を転がる。


「……誰ですか? それ」


――向けられた視線を言葉にするならば、恐らくそれは哀れみに似たものだ。やっぱりかと呟かれた声がなんの納得を示しているのかはしれないが、どうやら俺はそれを忘れてしまっているらしい。もう、どうでもいいことなのかも知れないけれど。どうせ俺はもうすぐ春になってしまうというのなら、忘れた過去なんてなんの意味があるというのだろう。
苦い唾液を飲み込んで、襖を開ければ声がした。


「……名前、君」
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