未来はいつも
引いた襖に一瞬重さを感じ、開け放てばその先に背を向ける少女の姿を見つけた。なんだかいつも彼女はこんな場面にこうやって鉢合わせてしまうんだなと少しだけ笑った。
「千鶴、おまえなんで、」
「す、すみません…! 名前君の体調が優れないと聞いて、その、心配になって…そうしたら、あの、すみません……立ち聞きしてしまって」
原田のそれは責めるものではなかったけれど、千鶴からすれば変わりないだろう。
俺は彼女の横を素通りして、廊下を右に曲がって歩みを進めた。背後で二人の静止の声を聞くけれど、止まるつもりはなかった。
「な、名前君!」
ぱたぱたと忙しない足音が床を軋ませる。ゆったりと歩いていた俺との距離など短く、息を乱すよりも前に追いつかれた。それでも、振り返らない。彼女もなにも言わず、ただ後ろをついて歩いていた。
多くの組員はもう床に入ってしまっているのかもしれない。雨音だけが鼓膜を震わせ、冷えた血液ばかりが体内を巡る。
――春の肉体で生きる俺は、ただ肉体が死なないために残った副産物だった。
生まれてからずっと一人だった。母と呼ぶ人も父と呼ぶ人もおらず、似たような境遇の子ばかりが集まる場所で生きていた。走れば呼吸は詰まり、日差しは炎のように肌を焼く。外で生きていくには辛すぎたこの体は、今にして思えば、春の肉体の限界、だったのだろう。そうして死んで行くのだと思っていた。けれど、今もこの肉体は繋がっている。あの頃よりも強くなった肉体で。
「……陽月」
ふらふらとたどり着いた中庭は雨に濡れ、そこに続く縁側に彼は腰を下ろしていた。俺が立ち止まる。続いていた足音も消えた。陽月は何かの童歌を口ずさんでいて、振り返る素振りも見せない。春の記憶の姿より随分丸くなったものだと、その背中に吐き捨てれば彼は嬉しそうに笑うだろうか。この体に、俺は要らないというのだから。
「子どもの時、怪我は人並みに治ってた。大怪我はしたことないけど、切り傷なんかの治り方は普通だったよ」
「春の記憶を思い出していくたび、お前はお前でなくなる、って言ったのは本当だっただろう。春の肉体ではあったけど、中身は名前のままだったから、そういう自己暗示でもかかってたんじゃない? 現に、池田屋の時の傷が開いたとき、あれは俺が治してやったんじゃない。俺は、お前が春の記憶を思い出すようにしただけだ。あとは勝手に自分で治したんだよ」
千鶴が羅刹に襲われたときに咄嗟に掴んだ左手のひらの刀傷は、もう跡形もなくなくなっていることが、紛れもない証拠だった。この怪我をしたあとに彼と会った覚えはないのだから。
乾いた笑い声が口から漏れた。堪えきれなくなってしゃがみこんで腹を抱えれば、尚更こみあげてくる笑いに喉が引きつく。
嫌悪していた。人間をいたぶるのが好きであった春の記憶に蝕まれ、腰に提げた刀は重量を増す日々。この体が元から春のものであったというのなら、成る程確かに、初めから刀が握れるはずだ。生き死にを繰り返すたびに戦場から遠ざかれば刀も握る機会は減る。だからこそ、彼は初めに体を鍛えろといったのだ。あとは肉体が覚えているのだから。――本当はこの体が春そのものであると言われるより前に、薄々は気づいていたのだ。無意識の奥底で、俺が傷つかないようにしまいこんでいたのだ。でないと、そうでないと、あまりに虚しい。苦しい、だけじゃないか。
「……っおれは、ただ、春を繋ぎ止めておくだけの使い捨ての人格ってことか」
「――そうだ。春がいなくなったあと、春と呼ぶのはあんまりだったから、名前と名付けた。お前はもう五番目の名前だよ」
笑い声は止まらない。ただ壊れた人形のように同じ動作を繰り返して、目蓋を閉じる。
「……化物って、子どもはいつも簡単に言ってくれる。お前はずっとそう言われて、要らないと言われて。傷の治りは周りの奴らと変わらないのに、なんでだろうな。なんで、分かっちまうんだろうなあ」
「……化物なんかじゃない」
背後で弾けた声が、雨音に消える。
「化物なんかじゃない、名前君は、要らなくなんてないし、春さんの代わりでもない…っ!」
からからに乾いた喉を引き裂く声が歯の裏側で滞留し、握りしめた手を太ももに叩きつける。膝頭に当てつけていた額を持ち上げ、背後でしゃがみこむ彼女を睨みつけた。千鶴は小さく震えて、そうして、俺の腕を掴んだ。
「……なら、私だって同じだよ」
「どこが? いつもいつもいつも、いつも千鶴はそうやって――」
離れた両手が俺の頬を挟み込んだ。言葉を継げなくなった俺を今度は彼女が睨みつけて、躊躇いもせず小太刀を引き抜く。刃こぼれ一つ無い綺麗な刀身から目を離せずにいれば、千鶴はそれを自身の白く細い腕に宛うと横に引いた。ぱたた、と赤い楕円が床にいくつも広がる。目尻にうっすらと涙を浮かべた千鶴は、下唇を噛んで、それから俺を見上げる。
「私は人じゃない。だから、名前君が化物だって言うんなら、私だって違わない」
剥き出しの刀を床に置いて、もう片方の手で腕の傷を乱雑にぬぐい去った。尾ひれを引く赤い線の下には、生々しい傷跡などどこにも残ってはいなかった。
「ねえ、ここにいるのは、名前君だよ。私が知ってるのは、私を助けてくれた目の前の名前君しかいない。新選組の皆さんが知ってるのも名前君で、今は思い出せないかもしれないけど、光さんを大事に思ってたのも名前君なんだよ」
「……っだから、だからその名前は! 俺は、もう要らないんだって! 春がいれば俺は要らない、だってこの体は春のだから。俺は俺だって思ってたものは、全部春のだったんだから――」
「違うよ」
「違わない! さっきからなんなんだよ、千鶴に何がわかるって言うんだ! 別にそんなのほしくなんてない!」
「っ」
しゃぼん玉が弾けた音がした。瞬間じわじわと熱を帯びる熱い頬が痛む。
「……わかるわけないよ。名前君は言いたいこと言ってくれないし、私はいつも守られてばかりで、笑ってくれるばかりで。だから、どんな顔をしてるかは見ればわかるけど、どんなことを考えてるかは、言ってくれなきゃわかるわけない! 私は名前君じゃないから、だから、私はわかりたい。どんなふうに思ってるのかとか、少しだけでもいいから、私にだって教えてほしいよ……」
ぱたり、ぱたり。床に落ちた赤の染みとまざりあって溶け合って、彼女はそこにいる。
――千鶴の顔を、ようやくそこで見た。気が付けば出会った頃より少し大人びた顔をした千鶴は、背も伸びて、座り込んでいるお互いの目線は彼女と変わらない。頭の中で三年前の雪の日のまま止まっていた彼女は、もうそこにはいなかった。
「……春は死んだんだ。病に冒された体で村人全員殺し回って、最期に壊れて死んだ」
ぱたり、ぱたり。熱いほどの頬を伝って床に滴るのは、雨の音に似ている。
歪みきった視界のなかで、陽月の足元が移りこんだ。
「こうするしか、なかったんだ。あの時お前に会わなかったら、心も全部ボロボロのまま死んでた。そんなの、さ」
嫌だったんだ、きっと。
隣にしゃがみこんだ彼は、俺の顔を袖でぐしゃぐしゃにすると目を細めて笑った。その穏やかな春の菜の花に似た瞳に映り込んだのは、名前だった。
「せめて人並みの夢くらい、見たっていいだろう?」
思い出したいと願ったのは、千鶴が握っていてくれるこの手の温かさを知る俺だ。忘れてしまいたいと呪ったのは、苦痛が俺一人にしかわからない孤独だと知ったからだ。
「……生きたいって、そう言ったのは名前君だったよ」
笑い声は嗚咽に似ていた。声にならない言葉が代わりとでも言うように目尻から溢れては零れて生温い水たまりをつくっていく。口内で渦巻いていた刺になった言葉を噛み砕く。この言葉は、もう必要ない。
「……っお、れは」
相変わらず彼女は確かに内側にいる。言葉では覆せない実となってそこにいる。
「……ここに、いたい」
けれど、そう願う俺の心も、内側にはっきりと存在しているのだ。
「ちゃんと、思い出して、それから、みんなと生きたい」
「辛かったら忘れればいい、俺は、そう思うよ」
「……忘れたら…、その辛いことも全部含めて、名前になるんでしょ……?」
微苦笑というには歪んだ表情を浮かべた陽月は、小さくため息をついて項を掻いた。
「……適わねえなあ」
そう笑いながらぼやくと、彼は俺の額に手を当てた。
「目が覚めたら、お前はきっと、ここにいる」
「うん」
「全部思い出そうとしなくていい。必要なものだけ、少しずつ、だ」
じわり、じわり。目蓋が重さを増して、開けていることも難しくなってくる。ふらふらとする体を千鶴が支え、俺は目を瞑りながら言葉を探した。
ごめん、ありがとう。口にしてしまうととても陳腐なものになってしまうから、沈みそうな意識の中で伝えたい言葉を選ぶ。なにかもっと一番、俺のこの感情に見合ったなにか。ああでも間に合いそうにない。かろうじて片足一本残っていた意識が、どぷんと水中に落ちた。
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