未来はいつも
五番目の名前が持ちうる一番古い記憶は白い部屋だった。薄いベージュのカーテンが風になびき、床に敷かれた色とりどりのマットがパズルのピースのようにはめられ、その上に転がるブリキやら積み木やら人形やらの玩具があたり一面に散らかっている。そこにいた数人の小さな子供の顔はもうよくは覚えていないが、みな物珍しそうな顔でこちらを見ていたということはうっすらと覚えていた。身寄りのない子供を集めた場所であると理解したのは、それから数年後のことだったと思う。小学校に上がり、見知らぬ子供が増え、関係が広がっていく中でそういった子供は彼らにとって異質だったのだろう。からかわれた記憶のほうが強く、とくに名前は体が弱かったので尚更殻は分厚くなるばかりだった。
心無い言葉が蓄積されていくたびそれは鉛に変わる。どこにも居場所がないときに出会ったのが、光であった。黄色の瞳、うす茶色の髪は細くしなやかで、ただの少年とは思えぬ難解な言葉が多かった。今にして思えば、中身は小学生とはかけ離れたものであったのだから、彼なりに擬態していたのだろう。なにも、気づかずにただともに過ごしていた。孤立していた彼女にとってそれは唯一の他者であり、互いに厭わなければ、疎まなければ、長く一緒にいるのは必然だった。
それが崩れたのは十三程の時だった気がする。報道でよく見かけるような、不運でありきたりで、それでいて凄惨なただの事故だった。信号のない横断歩道を先に進む光の背を引きとめようと声を張り上げたただそれだけの間に、飛び出して来た車がその小柄な体躯を跳ね飛ばしたのだ。蝉の声が五月蝿い、夏休みを間近にした七月の蒸したアスファルトを濡らす赤と白線の続きはどこまでも伸び、黒いカバンだけが、引きちぎれて反対側の歩道にたどり着いていた。意味のない名前の音が、夏の声に遮られた。
それからは伽藍洞の日々だ。幼い頃より動ける体があっても動く意志がなければ意味を成さない。彼がいなくなったことで孤立した世界は歳を重ねたことでかろうじて社交性を保ち、そして自己と他者の境界を薄めることで馴染むことにした。
十八となった頃に、金の髪を持つ男が目の前に唐突に現れるまで。
――成り損ないの神サマ。
そう告げた彼と、世界を捨てた。誰かの唯一になりたいと願う声を盾に、境界の薄さに堪えきれずに逃げ出した。その先は、現実にとっての過去ではなかったはずなのにもかかわらず、春が確かに存在していた世界だった。
瞼を開くことで世界を認知する。カーテンのなびく部屋ではない、白い障子から漏れる柔らかな日差しが空気中に滞留する塵を差す。じっとりと湿っぽい空気が、吸い込んだ体を浮かないように質量を増した。
「……名前君」
むくりと起き上がる体は重い。重くて重くて、仕方がない。少しでも軽くなりたくてぼろぼろと涙をこぼすけれど、一向に軽くはならなかった。
「名前、君」
雑音に阻まれない透明で高い声だ。機械を通さない温かな肉声だ。
「おかえり」
とてつもなく長い時間をかけて、その声を辿る。仄かに桜色をした瞳が細められる。滑らかな肌色を伝う、恐らく温かいであろう涙が落ちた。
「……た、だいま」
――重たくて仕方がない。頭の中に積もる記憶が五番目の名前である自覚を促している。一つ一つが、碇のように認識を留め、重石のように体を世界に留める。
「……俺、俺ね、羨ましくて、最初はこの世界が進むために千鶴を守りたかった。忘れても、守らないといけないって思った。でもそれは俺のためで、俺を好きだって言ってくれる千鶴が好きだから、そういう人を、傷つけたくないから、傷ついてほしくないから、だから、守りたかったんだ」
俺は俺が傷つきたくないから、俺を好きだと言ってくれる絶対の他者を傍に置いておきたいと思う。そうすることで曖昧だった境界は厚みを増し、周りと薄め合わなくても存在できるのだと。それは詰まる所自分のためではあるけれど、それはもしかしたら正常なことなのかも知れない。誰かを好きになって必要だと感じて傍にいてほしいと願って一緒にいたいと祈るのは、絶対的な他者が似たような線分を向けてくれるのであれば、それはどこも間違ってなどいない。きっと、きっと。あの頃のふたりのように。
「……目が覚めて、千鶴がいたら、何を言おうって考えてたんだけど」
ぼろぼろと涙がこぼれるのは、重いのが辛いからではない。
「やっぱり、ありがとうって、それしか出てこなかったや」
――重たくて重たくて重たくて、息が苦しくなるほど重たいことが。嬉しかったのだ。
千鶴は緩く微笑んで、俺の両頬をやわく押しつぶした。
「……変な顔してるよ、」
「……わざとでしょ」
なにもおかしくなんてないのに吹き出した彼女の笑い顔に釣られて笑えば、塩辛い味がした。俺――五番目の名前の大切な誰かがそばにいるから、名前として生きていけるのだと。なんとなく、許されたような気がしたのだ。
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