来はいつも

息吹く千歳緑色に醒める 3 / 3


喉が張り付いて息苦しい。指先を見れば震えているような気さえして、浅い呼吸を更に詰めた。
――あのあとすぐに部屋を出て行った俺は、起き抜けのまだぼうとした頭で空を眺めていた。ひとしきりこぼれた涙を惜しむ頭痛が少しばかり心地よい。まだ、言わなくてはならない人がいる。何を言葉にすればいいのか未だにわからないけれど、言葉を交わさなくてはならない人がいるのだ。
昼の熱を背中に浴びながら、目指す部屋はただ一つ。これから稽古をするのか巡察帰りの空き時間か、ふらふらと歩く隊士たちを横目に廊下を曲がる。ひんやりと冷たい床が指先に痛く、膝が軋みを上げた。
風邪だと、皆言っている。彼の、沖田の不調はただのよくあるそれでいて質の悪い風邪であると。そういう傍らでそうではないのだと知りながら、早く戻って来いよなとまた笑う。彼のことばかりに気をかけられるほど京は穏やかではない。それは、俺以上に知っているのだろう。六畳ほどの畳の部屋に閉じこもりながら、ずっと。
ぎしりと鳴った足音を最後に立ち止まり、薄い俺の影に隠れる障子を見つめる。この先で、夢現を彷徨っているのならば引き返そう。声が鋭いのならば引き返そう。変わらないのならこのままで。――だんだんと後退していく心に身体がつられる。声もでなくなって立ちすくんでいれば、永遠とここから動けないような気がした。


「……なに、してるの」


声を辿って顔を上げれば、沖田の部屋の一つ隣の部屋の障子に寄りかかる、彼の姿があった。いつもの濃い赤の着物を身にまとい、青い顔を貼り付けて、腕を組んでそこにいる。沖田との視線は一度交わったきり、ふらりと遠くを眺めたままで、唇は動かない。――少しだけ、吐き出せずにあるような言葉が本当に少しだけ、頑なだった唇を動かした。


「……」


呼ぶための名が、喉から抜けた。もっと一からしっかり考えてから来れば良かった。頭は何も単語を繋げずに網膜に映る沖田の姿ばかりを捉えている。どうしても、声が出ない。


「……、変わらないね」


遠くの喧騒がかき消してしまうほどの、小さな声が、弾けた。


「ずっと、変わってない、君だけが」


ゆるりと向けられた瞳が揺らぐ。翡翠の双眸が無感情にこちらを射抜く。竦んだ手足は相変わらず微動だにせず、からからに渇いた喉だけが、先走るように声を上げた。


「……っそ、うじ」


音になる、その繋がりが、彼を呼ぶ。沖田は一瞬細めた目を隠すように俯いたあとは、組んだ腕をきつくして尚更小声で呟いた。


「…羨ましかったんだと、思う」


時折咳き込む音を混ぜて続く吐露に、ずりと指先が床を擦る。


「君が、変わらないから。僕はこうして変わっていくのに、名前ばかりが、変わらない」
「……」
「二人で歩いている姿を見て、思った」


ゆるりとあげられた顔に乗る唇が、哂うように歪んでいた。六つの足音をならせて立ち止まったふたりの距離はまだ遠く、手を伸ばしても届くところにはなかった。


「――思ったけど、君に言っても、仕方ないか」
「……は」
「だって、癪なんだもの」


淡く笑った沖田はそのまま何事もなかったかのように歩き出し、自身の部屋の障子を開けると後ろ手に閉め切った。その前に、飛び出した俺の指が挟まった。


「いっ」
「な、にして」


左手の三指に赤い線を残して思わず涙ぐんだ俺は、その奥で驚いた顔の沖田を睨んで障子を開け放つ。小気味良い音がした。


「――ずっと、これからもずっと、俺は変わらない。でも総司はきっと変わってく。俺には、それが羨ましいよ」


苦い生唾を飲み込んで、踏み出した一歩が重い。彼とはおなじ畳の上に並んでいるというのに、どうしてこんなにも遠いと感じるのだろう。どこまでも、どこまでも――。


「口にしてくれなきゃ分かるわけないって、言ったのは総司だったよ、だから、」


唇が何も紡がなければその思考の一片さえも理解しえず、背けられれば目も見えない。こんなにもひとりだ。気がつかなければ、近づかなければ。――冬でもないのに、冷たい背中を丸めては、凍えていたのだ。昔の俺も、昔のあの人も。


「このままは嫌だなあって、思ったんだ」


舌先から転がった音に、沖田は笑みにも似せた歪んだ顔を浮かべて、それからゆるゆると腕を上げた。白い腕、細い腕。ぽすりと頭に乗った手のひらは、いつかに比べてひどく頼りない。呼吸を止めた空間は、ただ衣擦れの音ばかり響いていた。


「……相変わらず、小さいね、君は」


視界の端で袂が揺れる。自然と垂れた頭を持ち上げて、翡翠を見た。


「……相変わらず、ですよ」


彼の冷たくはない手のたどたどしさに、ほんの少しだけ、心臓が痛んだ。


息吹く千歳緑色に醒める

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