来はいつも

積もる灰白色の重なり 1 / 4


木々に縋る夏の声を聞きながら、中庭にある長椅子に腰掛けて空を眺めていた。薄い層を挟んでいたように見えづらかった記憶にある空よりも、今見えている星空はどこまでも鮮明に煌めいている。頭の中の結び目が、解けていくように絡んでいく。生温い空気を吸い込んで、瞼を閉じた。
――およそひと月が経った。時折夢に見る春の声は変わらず、思い起こされる記憶は俺のものではない。目が覚めた時に俺が誰なのかわからなくなる時もあるが、そんな夜は魘されているのだろうか、起きれば必ず、原田が俺の名前を呼んでくれた。かろうじて、まだ名前は生きている。周囲と圧倒的に違う時間の差というもので歪んでいきながら。まだ、生きている。


「調子はどうだ、名前」


ぱちりと開いた世界の隅に、陽月が立っていた。ふらふらと夜半に出歩くときは、大抵彼から会いに来るのだ。もしかしたらそれは、どちらなのかを確かめに来ているのかもしれない。
俺は瞬きを数回したあと、陣取っていた長椅子の隣を手で叩く。音もなく静かに腰を下ろした彼は、ぶらぶらとつっかけているだけの草履を土の上に捨てて椅子の上で小器用に足を組んだ。組んだ竹の軋む音さえなく、陽月は座り心地が悪かったのか左足を下ろして右足を抱えることで落ち着いた。


「こんばんは」
「こんな夜半には皆眠るものだぞ」
「あの月が木に隠れる前までには戻るつもりだったよ」
「はは、深夜二時と見た」


指差した右斜めにそびえるもうすっかり葉の生い茂った桜の木と、空に浮かぶ月との距離を見て彼は笑った。


「不思議だよ、最近は前に比べてちょっと安心してる」


俺は宙ぶらりんの両足を交互にばたつかせる。少しばかり吹いた風が長い前髪をさらって、わずかに汗ばんだ額を冷やした。
梅雨も近い盆地は相変わらずじめじめとしてまとわりついてくる。先走りの蝉がつんざく声を飲み込んだ。


「いろいろ思い出して、頭の中ごっちゃごちゃなのにね。こっちのほうが、うまく考えがまとまるのかも」
「……」


五番目の俺。それと少しの春の記憶。無意味な否定を繰り返す声を置いてきたから、残された肯定と黙認がほんの少し足場を固める。
ぎしりと、大きく軋んだ足音が背後で響いた。


「――こんなとこにいたのか」
「左之さん」


ばたつかせていた足を止め、振り返れば柱に肩をあずけて溜息を漏らす原田の姿があった。ちらりと陽月を映したあともう一度吐かれたため息に、続ける言葉をつかえさせる。縁側から伸びた手は俺の頭を捕まえて、ぐりぐりと縮ませるように押しつけながら撫でた。


「心配させんな」
「……ごめんなさい」
「お前も、こんな時分に動き回るんじゃねえよ」


左後ろにいた原田越しに見えた陽月の顔は、珍しく驚きに目を見開いていた。微妙に険悪とも言わせるような雰囲気のあった二人の間にそんな会話が紛れるとは。聞いていた俺もつい陽月と似たような表情を浮かべてしまえば、原田は奇妙な顔をして片眉を吊り上げた。


「……疑われるようなことすんなってことだよ」
「これ以上何に疑われると?」
「うるせえ、早く戻って寝てろ!」


二人が声を抑えながらそう話している間に草履を脱いで縁側にあがった俺の腕を原田は掴むと、もう一度陽月に戻るよう念を押してから廊下を引き返した。掴まれた腕と原田を交互に見上げる俺を、彼は中庭から離れた場所でようやく見下ろした。


「目が覚めていなかったら、焦るだろうが」
「……あ、」
「夜出歩くときは俺を起こしてから行け」


そんなことできるはずないと知りながら、彼は言い放つと掴んでいた腕を放した。ほとんど衝動に近いものに駆られて出歩いてしまうからこそすみませんとも言葉にできず、唇をもごもごと声にできずに黙りしていれば、彼は自室の障子を開けて室内へと促した。
――彼の夜着だけが、ぐしゃりと足元に押しやられて裏返っている。一歩畳を踏んで、動けなくなった。俺の目線の先に気づいた原田が何とも言えない声を吐き出して、乱雑に布団を戻してどかりと座り込む。いまだ障子の前で突っ立つ俺に、彼は解けた赤い髪をかきあげた。


「これァあれだ……寝ぼけてたっつうか、なんつうか……」
「左之さん」
「な、なんだよ」


掻きむしる手を止めて、見上げる彼は罰が悪そうに、それでいて視線を逸らしはしなかった。


「有難う、ございます」


今日も眠りに就けば見知らぬ夢を見る。そのたびにわからなくなる意識の糸を、手繰り寄せては握り締める。眠ることの怖さを知る由もなく、それなのにひどく温かいから余計に苦しくなるのだ。
月を背に伸びる影が、後ろ手に閉めた障子に遮られる。原田はくしゃりと顔をしかめて、何か言葉をためらったように唇を閉じた。
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