本棚の隅に隠したままだ

――名字はさ、寂しかったんじゃないんかな。


菅原は、まるで壊れ物を包む柔らかい綿のような声で、そう言った。
何にずっと憤っていたのか分からなかった。腹の奥に沈んでいた鉛の重さをはかりかねていた。
変わらずにそこにいると思っていた相手が、自分の意図とは裏腹に考えていたこと。はじめのような親友にも、本当の家族にもなりきれないそれでも友達と呼ぶには近すぎる徹は、途方もなく遠かったこと。ずっと一緒にいるのだろうと思っていたのに勝手に裏切られたような気持ちになったこと。はじめには予め告げてあった思いを聞かされていなかった、除け者にされたかのような感覚を覚えたこと。それらは等しく、腹の奥でふつふつと沸いた怒りに近いものであったと思っていた。

――怒りというのは大概が二次感情である。

後期のスポーツ心理学の授業で、初めて聞いた話だった。スポーツ心理学というカテゴライズされた授業からは少し遠い話になるが、と前置きされて説明されたのは、確か初日だったと思う。感情についての話をしようと息巻いた講師が乱れた文字をホワイトボードに書き散らしながら、そんなふうに言っていた。
そうであるというのなら、名前の怒りの裏に隠されていたのは紛れもなく寂しさだ。
相談してくれなかった。置いて行かれた。努力が積もっていた。世界が違った。取り残された。はじめには告げていた。名前にはされなかった行動、言動のすべてに寂しさを覚えていたのだ。それらが腹の奥底で質量を増して、表現しやすい怒りに変換された。何に腹を立てていたのか、わからなくもなるはずだ。

ベッドの縁に背を凭れかけながら、腹の上に乗ったバレーボールの汚れをタオルで拭いていた。
携帯の画面に表示された時間は零が並んでいる。
金曜日のメッセージを最後に、通知はひっそりとしていた。


『俺はさ、寂しかったんだと思う――』


少しだけ目を伏せて笑った菅原の表情。
寂しがり屋だったんだねなどと、あたかもすべてを理解したかのような言葉。
テーブルに置いたまま、携帯の画面に触れた。暗証ロックを解除して、左隅に鎮座するアプリを起動する。メッセージボックスを開いて、五月まで遡る。
おはよう、おやすみ。チームメイトが、朝ご飯が、天気が、海が。
途切れさせないための会話が二日に一通は必ず送られてきていた。既読だけつけて、返す言葉は半日前どころか三月末から今の今まで彷徨っている。
正しい言葉を、今も探している。そんなものの正しさなんて誰が決めるんだと笑いながら、それでも、探していた。あの日の徹への最適解は、なんだったのだろう。


「……寂しい、か」


そんな顔で笑うなと言われた顔は、果たしてどんなものであっただろうか。涙は確かに、堪えていたから相当に不細工であったに違いない。
そういえば徹が時折連れ立っていた歴代の彼女は皆かわいらしいひとが多かったなと、思考回路が逃げ始めたのを追いかける。
未だに本棚の隅にいる、味気ないブックカバーを被った冊子。――どれを買えばいいのかもわからず、とりあえず徹の話していた選手がちらりと出てきたものを買った。タイトルは、初めてのバレー。
新品同様の紙質のまま、そこにいる。
向き合い損ねて引っ越しで捨て損ねて、そうして、菅原に指さされた気がした。
暗くなった画面を触る。キーボードをゆっくり辿りながら、ごめんと、打った文字。送信ボタンは、目を固く閉じて送った。
徹は今頃強い日差しの下でランニングでもしているかもしれない。それか誰かとお昼でも食べているだろうか。午前中の追い込み練習をしているだろうか。自主練中だろうか。
二分と経たないうちに、既読がついた。
それから、お風呂に入って寝入る直前まで、返事は一向になかった。



***

翌日、まだ手の付けていない課題に立ち向かうべく、今度は土曜日に集まらないかとメッセージがきた。バイトのシフトも入っていないので二つ返事ですぐに返せば、以前名前に似ていると笑ったスタンプのコラボものがあったようで、変な顔をした柴犬とコラボ相手のパンダが送られてきた。


『それも私に似ているということですか』
『え、怒られてる?』


慌てた顔が想像できて、静かな部屋で思わず噴き出した。それからくだらない話を続けていれば、不意に彼が思いだしたかのように岩泉に、という単語を打ち出した。


『外部のバレー誘われてたんだけど、一緒にやることにしたんだ』


バレーはやらないのかと安易に問うてしまった名前にやらないのだと泣きそうだった彼は、寂しかったのだという声を飲み込んだ。かみ砕いで飲み込んで、そうしてまたバレーを続けるという。「岩泉もすごいの打ってくるスパイカーだったから、トス上げるの楽しみだ」なんて、きっと笑いながら打っているのだろう。
菅原はもう、その寂しさとの向き合い方を考えている。
――名前はまだ、噛み砕いていた。

BACK INDEX