家族にも親友にもなれない

三月も、残すところあと二週間ほどの時だった。引っ越しの作業に追われていて、部屋は段ボール箱で溢れかえっていた。ゆっくりと腰を落ち着けることのできるスペースもベッドにしか残されておらず、唐突にやってきた彼を持て成す空間など存在していなかった。


『ごめん、忙しいときに』
『ううん、それより、急にどうしたの? メッセ―ジくれれば私がそっちに行ったのに』


少しばかり緊張した面持ちで、彼――徹はドアを後ろ手に閉めた後、そのまま背をもたれて名前を見た。せめてどこか座る隙間でもと夏服の詰まった段ボールを脇によけていれば、彼は小さく息を吐いた後、眉尻を下げて笑った。


『俺、アルゼンチンに行く』
『――……は、?』


腰を屈めたまま見上げる彼の表情は、どこもおどけてなどいない。あっけらかんと、それでいて決意は固く、瞳は彼女から逸らさない。まっすぐに、ただ、確定事項を告げていた。


『…大学、行くんじゃないの?』
『――本当は、夏頃にはもう決まってたんだ』


青葉城西の入畑先生の紹介で、一時期日本で監督をしていた憧れのホセに会っていたことは聞いていた。行く行くはホセのいるチームでバレーをしたいと願っていたことは、随分昔に話していた。夢のまた夢だと徹は笑って、それでも、そうなりたいと努力を積み重ねていた。知っている。ずっと、見てきていたのだから。
――そうして昨年、ホセがアルゼンチンに渡ってしまったこと、ホセのもとでバレーがしたいこと、追いかけていくつもりだということ。徹は少しも瞳を離さないで、言い切った。


『明後日には、向こうに行くつもり』
『…なんで、ずっと、隠してたの』
『……』


視界がぼやけて、ゆるゆると下がっていく。彼の足元を映しながら、瞬きをしないように瞼に力をこめる。目の淵に熱いそれらが乗っていくのが分かった。
――大学はどこに行くのかと聞けば、いつも彼は秘密だと誤魔化していた。徹は徹なりになりたいもののために時間を積み重ねていく人だと分かっていたから、もしかしたらもっとバレーの強いどこかに行くのかもしれないとも思った。宮城から出て行くのだろうかと、そんなふうに思いはしたこともあったけれど、まさか日本からすらいなくなるとは考えもしなかった。
ちらりと、本棚を見やる。本屋の茶色のブックカバーで包まれたコミックよりも背の高い冊子。
今まで避けてきたものと向き合っていこうと、そうしたら、小さい頃のようにまた仲の良いいとこで居続けられると思っていた。
徹は隠していたわけじゃなくて、と言葉を濁して、初めて押し黙った。
上げることもかなわない頭で、必死に言葉を探す。正しい言葉を、漁る。


『…はじめは、知ってるの?』
『知ってる』


名字名前は女であって、及川徹のいとこであって、幼馴染であって、それ以上でもそれ以外でもない。


『そっか――遠いね、アルゼンチン』


瞬きを我慢したおかげで、涙が蒸発していく。乾いた眼球に戻っていくように、熱の引いた目尻をカーディガンの袖で拭って、顔を上げた。
大丈夫、笑えているはずだ。


『身体、壊さないでね』
『名前、』
『お金とかさ、海外ってスリ多いっていうし、ほんと気を付けてよ』
『名前』
『アルゼンチンって全然、イメージつかないや』
『名前!』


積み上げた段ボール箱をその長い足で跨いで目の前にやってきた彼は、床に座り込んでいた名前の肩を掴んだ。


『…そんな顔して、笑うな』


喉が、ひきつく。
彼の柔らかなブラウンの瞳に映る自分の顔さえも見えてしまいそうで、また頭を垂れた。
――正しい言葉を、探していた。いとことして、幼馴染として、前へと突き進んでいく徹に対して背を押すべき言葉を、散らかった抽斗を何度も放り出しながら。
それなのに、見つからないのだ。正しい言葉が、見つからない。正しいなんて、何が、誰が、いったい決めたのだ。


『……はじめには前から言ってて、私には聞かされてなくて、出発は明後日で、しかもアルゼンチンって……っ飛行機だってどんなにかかって、気軽になんて会えるわけないのに、なんで今そういうふうに言うの…!?』


それなら、どんなふうに笑えばよかったっていうのだ。
ここで泣いたところで決意は揺らがないし、揺らがせたいために泣きたくはない。引き留めたいわけじゃない。それでも、もっとはじめと三人で――。


『――ごめん』


息の詰まる音がした。それは、どちらのものだっただろう。
徹の手を振り払って、立ち上がる。見上げたところで埋まるはずのない身長差。頭一つ以上大きい彼は、別の大学に行っても、彼女ができても、変わらずに隣にいるものだと思っていた。
はじめと徹は親友で相棒で、その間には入れない。そのどちらにもなれない名前にとって、唯一つけられた関係性は家族のような、だった。そんな徹に、こんなに大事な話の相談も一つもなく、事後報告だけで済まされて。
言葉が、見つからなかった。
この腹の奥に沈むものが何なのか、分からない。ぶり返したように目尻の熱さがあふれ出て、けれどもこんなものが、今彼にとって必要で正しいことだなんて思えなくて、分かってはいるのに涙は止まってはくれない。


『家族みたいだって、思ってたのに』


徹の顔がひどく歪んだ。


『名前、俺は――』


いつも飄々として笑みをかたどっていた唇が紡ぐ音の一つも聞きたくないと、部屋を飛び出した。自分勝手な言葉を吐いた自己嫌悪だった。徹にそんな顔をさせたかったわけではないのに、そうさせてしまう言葉しか吐けなかった。
何に、こんなにも憤っているのかさえ、最早よく分からなくなっていた。

二日後、空港の正面玄関で立ち止まったいた。
結局、頑張っての一言も言えないまま、飛行機は離陸していった。別れを告げて帰ってきたはじめには割と強めに背中を叩かれた。


『後悔垂れた顔してんじゃねーぞ』


いつも名前には穏やかであったはじめが見せた、片手の指で足りるほどに珍しい怒気を孕んだ声だった。
それから、生活が落ち着いたのか陽気も夏めいてきた頃にメッセージが来るようになっても、もうどんなふうに返していいのか分からなかった。

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