残された課題に立ち向かうべく、再び予定を合わせたのは土曜日だった。ランチのピークを過ぎた昼下がりに、お互いにパソコンを持ち出してファミレスの一角で向かい合っていたのだが、それも束の間、名字の隣をいつの間にか占拠した彼、岩泉は、つい先ほど何故だかここに現れたのだ。しかも本人もパソコンを広げてやることがあるようで、ソファ席にスポーツ栄養学の本を二冊ほど積んでいる。
名字はといえば、カフェモカを飲みながら明後日の方を向いていた。
もしかして友達がいないのかという彼女からの憐憫の眼差しを向けられた岩泉は、んなわけねえだろと否定してはいるが、この状況を思うと説得力など皆無だ。
――それだけ幼馴染の名字が心配なのか、それとも相手が菅原だからなのか、なんとも言い難い状況ではあるが、彼自身は気のいい人だ。彼女も楽しそうではあるので、まあいいかと水滴の滴るグラスを持ち上げてストローを銜えた。冷たいカフェラテが喉を流れる。彼がそこまで気を遣うような下心は今のところ持ち合わせてはいないのだけれど、それは強いて言葉にする必要性もないのでカフェラテとともに飲み込んだ。
「っていうかまだそのスマホケース使ってるの?」
「いいだろ別に、かっけーし」
「ギャップ狙い?」
「狙ってねえわ」
――ソファ席だからなのだろうか。二人の近さが気にならないといえば嘘になる。幼馴染というものは、大抵こんな具合なのかもしれない。
「はいはい、二人とも課題やりに来たんだろ」
どことなく後輩たちを彷彿とさせるやり取りに言葉を挟めば、名字ははっとして「そうだよ邪魔しちゃだめだよ」と自分を棚に上げてそう言ってから画面とにらみ合い始めた。お前が言うなと尤もらしい返答を受けているが、彼女も笑っているので想定内というところだろう。
それから三十分ほどそれぞれが静かに課題を進めていきながら、不意に名字が席を立った。彼女の姿が店内の観葉植物やら梁やらで見えなくなった頃に声を上げる。
「んで、本当に岩泉はなんでここにいんの」
ページをめくっていた手を止めて、彼は顔を上げた。菅原から目を逸らさずに、しかし言葉は濁している。
「あー…お前バレーまた始めるって言っただろ。今日この後暇なら体育館とかとってやれっかなって」
「三人で?」
「そっちで一人くらい誰かいんだろ。そしたら二対二くらいはできる」
――微妙に空いた間。
彼はカフェラテのストローを咥えながら、携帯をいじり始めた。
確かに、先日の名字のこともあってなんとなく踏ん切りがついたような気がして、岩泉にバレーを始めることを告げたのだ。彼の行っている同年代が集まるクラブで、この寂寞をうまく丸め込めるかどうか少しの怖さ、というのか、不安はある。ただ、このまま漠然としたものに食い散らかされるのも腑に落ちない。
しばらくやってねェんだろ、とちらと見上げた岩泉の目に言葉を詰まらせながら、携帯の画面にある既知の名前をにらみ続けていた。
――最新のメッセージはひと月程前。くだらない話で切れた会話をスクロールして、今までどんな風に送っていたか振り返る。それくらいには、内心引け腰ではあった。へなちょこだと笑われそうだな、なんて思い出し笑いができるくらいには少し気楽にはなっていたけれど。
「――つーわけで、これから一旦家に戻ってシューズ持って来い」
「へ? なに突然、どういうこと?」
「お前どーせ運動不足だろ、たまには付き合え」
名字が戻ってからというものさすがに終わる気配のない課題に集中力を費やして、店が混み始める少し前に会計を済ませた。名字の分は岩泉が出すといって収拾がつかなかったが、結局菅原と岩泉と、小銭を名字が出して落ち着いた。
自転車置き場でハンドルに寄りかかりながら、岩泉の口から唐突に吐き出された命令に彼女はカゴにパソコンを滑り落とす。
「すぐそこの市営の体育館で、一時間なら借りれたんだって」
「スガさんもバレーするの? 二人で?」
「だからお前も入ってるっつの」
「わたし――」
バレーしないよ。
そう、言いかけたのだと思う。乱雑にカゴに収まったカバンを直すふりをしながら、目を泳がせていた。
「…大地、来れるって。烏野の主将やってた奴」
「!」
岩泉の後ろにいた彼女と菅原の気持ちは到底無関係だったはずなのに、瞳の縁を緩ませながら笑うものだから、つられてしまいそうになって目を伏せて笑った。
往復して体育館に戻ってくること三十分。駐輪場におのおの自転車を止めて、まだ合流していない澤村に先に中に入ってるとメッセージを送る。すぐに既読がついたのを見届けて、どうしようもなく熱くなった心臓の裏側を宥めるように深呼吸を二回してから体育館に入った。
市営の小さな体育館でもバレーコートは三面分あり、奥の二面を使って婦人会がバレーをしていた。
体育館の隅でシューズを履き慣らして隣を見やれば、名字はバレーをしていないというにも関わらずそれに近しいシューズの紐を慣れた手つきで縛っていた。
「名字、そのシューズなんのやつ?」
「あ、これ、私高校でバドミントンやってたんだ」
空色のような鮮やかな青の地に、黒いラインが細く縁取る。軽やかで、それでいてどこか浮足立って見える彼女の足元は爽やかだ。
岩泉が軽く飛び跳ねてから、それじゃあネット張るかと先陣切って用具室へと名字を連れ立っていく。バレーの支柱は岩泉と二人で持ち運び、貸し出し用の随分古びたネットを彼女が抱えてコートに立ったところで、白のドライシャツを着た男が小走りに寄ってきた。
「悪い、遅くなって!」
「大地! 久し振りだなあ!」
「おー! 急にメッセージ来るから何かと思ったよ」
澤村は足元の支柱を立てる蓋をずらして立ち上がると、反対側にいた二人に向かい合うなり手のひらを打った。
「青城のエースだったな、確か」
「おう、岩泉だ。よろしく」
「私及川のいとこの名字名前です」
「俺は澤村大地。烏野の主将やってた。なんか新鮮な面子だな」
澤村の笑い声は、懐かしいくせにどこも変わってなどいなかった。
――なんてことない、こんなに簡単なことだったんだ。
慣れない手つきでハンドルを回す名字に合わせて、ネットが高く上がっていく。見上げれば、体育館のライトで目が眩んだ。