それだけで良かったのだ

嫌だと何度も首を横に振ったとしても、トスの練習だけでいいから、とそう言ってボールを片手にやってくるのだ。
及川徹は努力の人で、ボールに触れることができるのならば上がった先がどこに行こうが、喜んで応えた。他人から上げられた自分の意図していていないボールというものが、面白かったのだと思う。


『名前もやればいいのに。うまくなってるし、トスとアンダーだけだけど』
『それってうまくなってるっていうの?』


そうして、次の試合を見に行った時、気づく。及川と岩泉の隙間に流れるものは、どれだけ名前がバレーをしてもこちらにまで流れてくるものではないということを。

及川が、岩泉に上げるトスを何度も見てきた。見るたびに二人が羨ましくなって遠のいていったけれど、それでも、見てきた。
――ボールが床に落ちて数本目。菅原と澤村のマッチポイント。澤村の少し崩れた姿勢から放たれたスパイクを、岩泉が打ち上げた。


「悪ぃ!」


コートの右手アンテナを越えたボール。そこから弧を描いて落ちてくるボールに向かって、右足を踏み切った。空中で翻りながら、岩泉に向かってトスを上げる。柔らかくしなる手首。視線の先で、彼は目を見開いていた。


「ッ、ぅおらァ!」


ボールが床に打ち付けられる音。着地の勢いに負けて、尻餅をついた。
長く伸びたスパイクは触れられることもなく、ボールは壁に跳ね返り菅原たちのコートの中頃で止まった。
ん、と差し出された岩泉の手を掴んで立ち上がると、彼は「ほんと変わんねえな」と口元を緩めてぼやいていた。
結局、残り四点の差は埋まらず、菅原と澤村のペアが勝ち星をあげた。四点で済んだのは、彼らの優しさというのかなんというのか、つまりそういうことである。
二回戦のペア分けのためにネット中央に集まり、お決まりの掛け声をあげると、澤村と岩泉は拳を握っていて、菅原と名前は指先までしかと開いていた。


「うわ、向こうは攻守ばっちりだよスガさん」
「まあトスの安定感はなさそうだけどな」


ネットを挟みながら大仰に声を上げてみれば、菅原は腰に手を当てながら笑った。
共にスパイカーであるために、トスの精度は高くはない。俺の有難みが身に染みるだろう、とまだ始まってもいないのに菅原が胸を張るので、そうだなと澤村は肩を叩いた。そこは突っ込めよ、なんて相変わらずのほほんとした漫才を繰り広げていたのを横目で笑う。何とはなく気づいていたが、どうやら菅原は案外お茶目というか、真面目一辺倒とは程遠いようだ。


「あと五分したらはじめよーぜ」
「はーい」


自前の大容量ボトルで水分を摂る岩泉にならって、ペットボトルの蓋をひねる。久し振りに飲んだスポーツ飲料の味は、粉っぽくなく少しだけ濃かった。

男子勢の鬼のような体力について行けるはずもなく、澤村とペアになった三ゲームめで音を上げた。
目の前で二対一という理不尽な暴挙に澤村が追いやられているが、緩い球は拾っているので彼のレシーブ能力は高いのだろうなと壁に寄りかかりながら眺めていた。二対一というかむしろただの広範囲なレシーブ練習になっているが。
――ジャンプのしすぎで腿がはちきれそうだ。
先程の結果といえば、岩泉以外のトスはてんで真面なものが上がらず、菅原とも澤村とのペアでも大敗を喫した。そもそも岩泉が名前にばかり打ってくるので意地の悪さが露呈したが、まだ大丈夫だとよく分からない根性論を叩かれたのでスパイクを仕返してやろうと思ったが見事に白帯に阻まれた。


「名字ー回復したかー?」
「ここにも鬼がいる」


半分以上中身がなくなったペットボトルを手の中で弄んでいると、コートの中から菅原の大層楽しげな笑顔が飛んできた。反対コートで澤村は倒れ込んでいる惨状で、その笑顔はあまりに眩しすぎる。床に汗が滴りそうなほど全員髪まで濡れているのにまだまだ余力はありそうで、思わず項垂れた。彼に腕を引き上げられて引き摺られるようにコートに入ると、たった三人しかいないというのに、ひどい熱気がこもっている。


「トスならまだいけんべ」
「何やかんやジャンプするよ…」
「向こうよりマシだろ」
「また俺一人なのかよ!」


岩泉が指差した先で起き上がった澤村は、今度は菅原を道連れに反対コートへと連れ去っていく。
彼がネットを越えると丁度時計が見えたのか、あと二十分もないなと声が上がった。片付けを考えれば何かができる時間でもなく、クールダウンついでに軽いラリーをして終わりにすることにした。
――腕も上がらないほどくたくたで、何回か大きく跳ね上がったボールに腕は真っ赤で、ボールに追いつけないほど足は重い。汗で張り付く背中のシャツは気持ちが悪く、頭上にまとめた団子ヘアは崩れてきている。天井を見上げればライトは眩しく、ネットは遠い。それなのに、笑っている自分がいる。
隣に岩泉がいて、もう及川もいないけれど、二人の隙間に入り込むためのバレーではなかったのだ。きっと最初から、こうしていれば、良かったのかもしれない。同じコートに立てなくても、同じ言葉をかけられなくても、ただ、ライトに照らされたボールを繋ぐだけのちぐはぐなバレーというものを、及川は望んでいたのかもしれない。

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