片付けと簡単な掃除を終えてコートを開けると、すぐに次の利用者が団体でやってきた。メインアリーナから廊下に出ると空気は一層ひんやりとしていて、着替えてから帰るために一度更衣室に寄っていた。
「なんだ、てっきりスガか岩泉の彼女かと思ってたよ」
「ただの幼馴染みだっつの」
「同じ大学の友達だって言ったべ」
ぐしょぐしょになったシャツを袋にまとめてカバンに詰め込む。高校の更衣室よりははるかに広くて綺麗なロッカールームはどことなく冷たかった。
唐突に隣で替えのシャツを頭から被る澤村が思い出したように言った言葉に、二人の声が重なった。そういえば及川はどこ行ったんだという疑問に、岩泉がアルゼンチンだと事もなげに告げたのであの日の菅原と似たような反応が返ってきたのに思わず笑う。
「たまたま大学に及川のいとこの名字がいて、それでこのメンツなわけだ」
世間は広いようで狭いな、なんていう言葉がやけに年寄り臭くて、彼は一足先に歳をとっていたのかもしれない。
カバンを担いで静かな更衣室を後にする。玄関前のソファにはまだ誰も座っておらず、冷水機の水で溶かしたプロテインを岩泉が飲み終わる頃に名字が戻ってきた。
頭の上にのる丸い団子はまとめ直されていて、ラベンダーというのか、薄い色のパーカーは相変わらずだぼっとしている。パステルカラーが好きなんだろうなと、なんとなく思った。
「お待たせしましたー」
よろよろと覇気のない足を引きずるものだから、運動不足すぎだろと笑えば性差と一言で返ってきた。
自転車置き場で連絡先を澤村と交換している様を見届けて、帰宅方面を確認すれば澤村と岩泉の家は正反対で、菅原たちはその中間地点ほどのあたりと判明した。
「じゃあまた、いつでも声かけてくれよ」
「おー、今日はありがとな、大地」
次は決まっていない。それでも、明確な"次"がある。またあのメンバーで集まることがなくても、それでも同じバレーだ。澤村はいつまで経っても変わりはないだろう。仮令東峰のへなちょこがなくなっていたとしても彼であることに違いはなく、そんな彼とバレーをしなかったとしても、菅原は何も変わらない。
「岩泉、あとで練習の日教えてくれな」
「確か次水曜だったと思ったな。また連絡するわ。――名前帰んぞ」
「えっ方向違うじゃんはじめ」
岩泉は一瞬顔を歪めたあと、さっさとしろと額を叩いた。
「俺送ってくし大丈夫だべ」
スタンドからタイヤを下ろしながら言えば、不可解な目でこちらを見られたのだが、蛍光灯が暗かったせいにしておこう。
名字は大丈夫だよなんて間の抜けた気軽さで適当に返事をすると、出口に向かって自転車を押し歩いた。まとめ損なった髪が一房、背中に垂れているのが見えた。
心配症かと笑い飛ばすところなのか測りかねてもう一度後ろにいる彼を見遣ったが、苦々しげに眉間にシワを寄せていたので何も言わずに向き直る。幼馴染みの距離感というのは、なかなか難しい。
少し思考を傾けたのち、菅原なら大丈夫かと良いのか悪いのかそんな幼馴染みの認可を経て、背中を向けた岩泉に、名字が思い出したように声をあげたので漕ぐ足を再び地面につけた。
「はじめ、写真撮って」
「はあ? 腕の?」
「そう」
「ここじゃ暗すぎて見えるかよ」
口でそうは言いながらも携帯を取り出し、自転車を停めて街灯のある位置にまで動くとシャッター音が響いた。二人で並んで言い合っている後ろ姿がいかにもそういうふうに見えて、澤村の言っていたことは強ち間違ってもいなかったのではないだろうかと不意に思った。思ったところで、なんの意味もないのだが。ただ、もしそうなら先程の表情も説明がつく。出しゃばったかな、と言葉を探しているうちに、撮影会が終わったのか、岩泉はじゃーなと背を向けて漕ぎ始めていた。
「スガさんお待たせ」
「あー、うん、なんか、良かったのか? 彼奴」
「はじめ? よく分かんないけど、中学の頃からあんな感じだったよ」
メッセージ画面を開きながら写真を添付しているようで、気の抜けた送信音が鳴った。
帰ろっかと笑った顔は、本当にどこも何とも思っていないようで、考えすぎだったのかもしれないと言いかけた言葉を飲み下した。
車通りの少ない広い車道の脇をひどく緩慢な動作で漕ぎ進む。あまりの鈍さに時折ふらふらとさせながらも、彼女はそれ以上スピードを出す元気がないようだった。その方が疲れないかという会話はもう既に済ませてある。因みに返答は同意だったはずなのに、一向にスピードが上がる気配はなかった。
「――今日、楽しかった」
緩い坂道に差し掛かり、車輪がよく回る。後方からくる車のヘッドライトに後輪の反射板が照らされて、赤い尾を引いていた。
空を切る音に紛れながら、名字はそう言った。少しばかり後ろを走る菅原にその表情は見えないが、恐らくは笑っているのだと思う。
「よかった」
「私もちゃんと、」
不自然に切れた言葉を待つ。坂道のおかげで勢いのついた彼女の自転車は、けれど公園に差し掛かると突然ブレーキをかけた。
街灯が一本しかない公園は相変わらず薄暗く、この時間では流石にもうボールも追えないだろう。
名字は横目で公園を眺めてから、自転車から降りた。
「電話してから帰ってもいい? スガさん先に――」
「嫌じゃなければここで待ってんべ」
ここで置いていく意味もないだろう。
眉尻を下げた彼女は短い階段を登って、少し離れた先で携帯を耳に押し当てた。辺りが異様に静かなせいで、呼び出し音までも聞こえた気がした。
大凡五コールほど鳴ったあたりで、諦めたように携帯を耳から離しかけた。瞬間、動きが止まる。
「――と、おる」
『――!』
声が弾けた。電話口の機械音は、不満そうに何かを発している。不鮮明な声だったので何と言っているかまでは聞こえないが、名字が「うん、すごい分かった」なんて泣きそうな声でそう言っていたのだけは、はっきりと耳に届いた。
「ごめんね――うん、そう、烏野のセッターだった、そう、あと主将の――…」
熱をさらう風が首筋を撫でていく。汗の冷えた身体にはこたえて、ぶるりと身震いをした。
「楽しかった。私、楽しかったよ」
――パーカーの裾を握って、言葉が逸るせいか何度も爪先立ちになる彼女の表情に、目を逸らせなかった。
頑張って、と懸命に吐き出した言葉を最後に、通話が途切れる。名字は呼吸を整えるように胸を僅かばかりに上下をさせて、それから短い階段を降りてきた。
「ありがとう、スガさん」
――及川がここにいるとしたら。いつだってその表情を向けられていたのかと思うと、二人の隙間に漂っていたものがほんの少し羨ましく思えた。